・吉郎治の死
「イルクーツクで四年目だったべ、己未の年の二月末((寛政十一年二月二十八日、西暦一七九九年四月二日))に吉郎治が病気で死んだ(死にました)。
皆が病院の吉郎治が枕元に寄ったのっしゃ(です)。
各々がバラバラに暮らす始めで居で、そんな時でもねゃ(無い)どお互いに顔を見せるごどもなぐなっていだべ(いますた)。
流行り風邪だと思いますが、(死因は)良く分がんねゃ(分りません)。
吉郎治は年齢も年齢だけに疲労が重なっていだべ(いたのでしょう)
船親父とすて皆が頼りにすて居だがら、吉郎治の最期の時の言葉に皆が号泣しやすた(しました)。
『日本に帰れ、何とすても日本に帰れ、家族が待っていん(る)べ』ですた。
それまでの弱々すい語り口どは違っていますた。
寛政八年(三月)に辰蔵、善六、翌年(寛政九年正月)に民之助、八三郎がオロシヤのキリスト様の洗礼を受げだ、改宗すたとすって(知って)いでの言葉だったのっしゃ。(です)。。
己が帰るごどが出来ねゃ(出来ない)無念さの残る言葉だったべ(でしょう)。
んだども、最期の最後まで皆を心配する船親父だったー。
俺が死んだごども語ってけろ(伝えて呉れ)、が最後の言葉ですた。
享年七十三歳だべ(です)」
「・・・」
誰も何も言わない、言えない。吾とて筆を休めもした。質問が途切れた。
左平が語る。
「田舎に帰ったら、小竹浜(牡鹿郡小竹浜(塩竃))の吉郎治が家族、身内に遭難すた船でのごど、
やっとに島に上陸すたごど、オロシヤの島での生活、それがらオホーツクにも、ヤクーツクにも居だ時のごど、
亡くなる最期のごども語って聞かせにゃなんねゃど思ってんだー(最期のことまでも報告しなければならないと思って居ます)。
俺の生まれだ寒風沢(の浜)に行ぐには小竹浜から連絡の船が出ていんのっしゃ(出ています)。
誰が死んだとて、宗旨(ここではロシヤ正教)に入っていねゃば、お寺は葬式すて良いよど言わねゃ(了解しない)のっしゃ。
んだども(けれども)、吉郎治のお墓、墓石がごどは前にもお話すますたが、太十郎が何がら何まで全部すてくれだのっしゃ(です)。
お寺(教会)が駄目でも、葬儀屋を通ずて棺桶を買うごどが出来ますた。
異人を葬る所だど聞きもすた、決められだ何処(墓地)に埋葬も出来ますた。
皆が野辺送りに立ず会ったのっしゃ(です)」
キリスト教に非ざる者の屍は原野に捨てられる、遺体は獣の餌になる。強烈な印象を吾に残した光太夫殿(大黒屋光太夫)のあの無惨な話を思い出した。
光太夫殿の体験から十年は経っていようか。お寺の扱いは変わらずも異国の者のための墓地が出来ていたらしい。過ぎた歳月がそうもさせて呉れていたのかと、聞きもしていてそれだけでもホッと安堵を覚える。
(吉郎治のお墓は凡そ百年後の明治三十四年(千九百年)に、独逸で司法制度を学びシベリヤ経由で帰国した大審院検事、小宮三保松氏によって発見された。
同氏が明治三十四年二月十九日付けの報知新聞に「バイカル湖畔にて日本人の石碑の蒼然として苔蒸したるを発見」という記事を書いて、世に吉郎治のお墓の存在が知られることとなったー「石巻若宮丸漂流民の会」会報)
[付記]:上記の「吉郎治のお墓の発見」の記事のブログ登載については、「石巻若宮丸漂流民の会」の代表、大島幹雄様に事前に御了解を頂いております。この場をお借りして改めて御礼申し上げます。