・イルクーツクの街
津太夫が語る。
「先に難破すた廻船、神昌丸に乗っていだ者が四年前(寛政四年)に日本に帰ったとトコロコフに聞いで、俺達も帰れる、俺達も 帰れるど大きな希望を抱いだべ(のです)。
んだども(しかし)、(イルクーツクに)凡そ八年も暮らすようになったのですた。
お役人や現地に居だ日本人に何度か帰国を、日本に帰る手はずをど頼みも問い合わせもすますたが、良い返事は無がったー(無かったのです)。
当地の大商人の世話で、家賃無しの家に何人かが一緒に住んだごどもあります。そこでも外でも、皆も俺も宗旨を替えろ、そうすれば良い生活が出来んだ(出来る)、地元の皆が今より更に面倒を見でくれるど何度か言われますた。
漂民なればと御上から貰う銭子があったども(ものの)、儀兵衛の言うとおりその銭子だけでは暮らせながったのっしゃ(です)。
寒い国だと言うのに、布団も着る物さえも真面に用意出来ねゃがったのっしゃ(出来なかったのです)」。
頷いたばかりの頃に昌永が、末吉、お京を伴って顔をみせた。二人の姿を見るは昼飯を告げる刻でもある。
もう九つ半(午後一時頃)になるか、今日ももう半日が過ぎたかと、四人の解放を思うと焦りさえも感じる。故に、弁当とお茶がための休みも四半時(約三十分)で切り上げんと思う。
吾がもうひと踏ん張りと告げるに、お京にお茶をもう一杯と所望した津太夫が語りだした。
「イルクーツクは途中に見たヤクーツクよりも大きな街ですた。
家は三千軒、寺の数十三と覚えでっぺ(覚えて御座います)。
お寺が石造りなのはヤクーツクと変んねゃ(変わり有りません)。
兵隊と言うのが、お役人様だけでもイルクーツクには千八百人も居る、お奉行様も二、三人居で三、四年おぎに交代するど新蔵さんのお話ですた。
その新蔵さんも慣れぬ国だべ(でしょう)、様々な苦労があったようにお聞きすて御座ます。
町の近ぐには大きな湖がありますた。短い春、夏、秋に魚を取っ(る)所で、地元の人は其処をザーモ―リョとか呼んでいだべ(呼んで居ます)
(環海異聞に「ザーモ―リョ」の表記。今のバイカル湖のことである)
また、北の方角に流れる大川があるのが印象に残っていっぺ(います)。何すろ一番寒い頃には氷の厚さが二、三尺にもなるど言うんだがらたまげだー(驚いたー)。
その氷が溶けだす頃には周りの景色も人の顔も見えねゃ(見えない)ほどに、川筋から靄が立つのっしゃ(です)。
日本でも春先に野山や海に靄が立つのを見たごどが有っけど(有りますけど)、広―い、広―い土地一面を覆い隠す靄はただただ驚きだったー。
イルクーツクは西の本国、新都ペテルブルグまで七千里(約七四六九キロメートル)、唐(中国)の山境まで五百里(約五三三キロメートル)、通り過ぎでも来た東北のカムチャッカまで六千三百里(約六七二二キロメートル)あるど聞いで、今更ながらに日本が何処に在んだが(在るのか)分がらなぐなりますた。
トボリスク(環海異聞に「トボリツカ」の表記。以後、トボリスク)にカザニ(環海異聞に「加山」の表記。以後、カザニ)とか言ったべが、その辺りがら通り過ぎで来もすたヤクーツク、オホーツク、カムチャッカなどまでの数千里はまどめでシベリヤ(環海異聞に「止白里」の表記。以後、シベリヤ)と言うのだど地元の人の話ですた。
んだがら(ですから)、(仲間)皆がシベリヤは寒いどごだど覚えて居ん(る)べ」
うーん。思わず心の中で唸ってしまった。オロシヤの里の計算を確かめねばと思いながらまだそれが出来ていないのだ。その時(時間)とて無いのだ。
彼等の過ごした街の気候、風土、季節等その地の在りしを、また、駅と駅との間の隔たりを星の位置や緯度から間殿(間重富、江戸幕府の天文方に勤務する天文家)に教えて貰う、計算して貰うしかあるまい。
津太夫の話が続く
「イルクーツクの街には、儀兵衛が先にも言ったとおり芝居小屋も有り、踊りも見せ、何人もが揃って鳴り物を鳴らすて聞かせる所とて有りますた。
人の通りも多く、一言で言えば賑やかな街だったと言えんべ(言えましょう)。
家々は石造りも有っ(る)けど大概は木造だー(です)。積もる雪に備えでの事だべ(でしょう)、二階建が当だり前ですた。
どの家にも中庭があって、大根などの野菜に煙草を育てでいますた。まだ、決まって鶏を飼っていだのっしゃ(です)。
食事は日に三度。朝は小麦で出来だ少すの蒸餅にお茶を飲むだけですたが、昼と夜はすっかりどすた物ですた。決まって蒸餅に芋、豆などの野菜とか牛肉の煮た物ですた。
夕食は五つ時(午後八時)ですた」
「お茶は日本と変わりない物かの?」
「んでねゃ(そうではありません)。
俺達にはそれが何だが分がんねゃ(分かりません)。
茶色いお湯で良い香りですた。たまに、牛の乳という日も有りますた。温かくすてあん(る)のっしゃ(です)。
豚や羊肉、牛の肉は市中で売ってん(る)べ(のです)。魚屋が軒を連ねでいだのが印象的ですた。
野菜、小物、雑貨を売る店も並んでいで、店の前の軒下は二間巾ほどが通路ですた。雨、雪などを避けるためですた。生活の知恵だべ(でしょう)。
病院、鍛冶屋などは街外れにありますた。病院は誰でも利用するごどが出来っぺ(ます)。
医者が診で呉れで、紙こ(処方箋)を持って薬屋に行くのっしゃ(です)」
医者はドクトル。ドクトルにもいろいろあって馬車の送り迎えが付くのはエネラル・マヨル。刺絡(血液採取等)をするはシタブ・レカリ。下等の医者をㇾーカリ。病院とは別に薬を処方するところが有ってそれを薬局と言う。薬局をアプチュ―カと言う。
薬剤師はアピチエッカーリだと、あの御薬園(大黒屋光太夫と磯吉の住む番町の御薬園)で聞きもした光太夫殿のご教授を思い出した。
(早稲田大学図書館所蔵本の「環海異聞」に「病院」が出てくる。凡そ二百五十年前を思うと筆者は驚きもするが、そこにはカタカナで「ビヨウニンべヤ」と付されている)
お茶を口にして一呼吸置いた津太夫だ。それを機に(吾は)志村殿に記録出来ているかと確認した。
書き残すことの方とても、いやはや実に大変な作業だ。