儀兵衛が後を続けた。
「新蔵さんは日本語学校の先生とてお国から月々の銭子(報酬)を貰っていだのっしゃ(いました)。
奥様は後妻で新蔵さんとの間に小さな子がいだげど、出て来た子は先の奥さんとの子だべ(でしょう)。
俺達は(日本語)通詞だと言うトコロコフにお世話になりますたが、いざという時には新蔵さんを頼りにすていますた。
新蔵さんとで(日本語は)イロハと仮名書ぎぐらいのものだども、オロシヤの言葉、読み書きは良ぐに覚えでもいますた。
お役所との掛け合い、書き物を出すに教えで貰い、手伝って貰ったー(いました」
耳を澄ましているに驚いたは次の語りだった。儀兵衛の口から光太夫殿(大黒屋光太夫)から聞きもしていた庄蔵が消息も聞くとは思わなかった。
「新蔵さんと一緒にオロシヤに残ったと言う方に、庄蔵さんが居ますた。
庄蔵さんもまた日本語学校に籍を置く先生ですた。
庄蔵さんは足が不自由ゆえに、何がど新蔵さんに世話をかげで居だようだー。
最初は仲が良がった、オロシヤで生きでいくためにお互いに励ます合い、助け合っていだど庄蔵さんに聞きもすますた。
だども(しかし)、新蔵さんが妻帯すれば子も出来だ。妻帯者とそうでない者、同居のままでは無理があったべ(有ったのでしょう)。
庄蔵さんがら、生活の有り様が大きく変わったど聞きますた。それで何時すか二人の間には大きな溝が生まれでいだんだべ(いたようです)。
庄蔵さんがら不平不満を度々聞きもすますた。
俺と知り合って二月と経だず、少すばがりコツコツと貯めでおいだ銭子がある。雨露寒さが凌げれば良え、この金で借家を探すてけろ(呉れ)、一緒に住もうど思いがけねゃ庄蔵さんが申す出(提案)ですた。
俺とてトコロコフが世話で善六、辰蔵と一緒の所に住んでいますたが、宗旨替えすた二人と考えが違えば、二坪ほどの部屋に三人が一緒で窮屈にも思って居だべ(居たのです)
お役人様から頂く支援金とて己の手に(直接)頂ぐ物ではねゃす(無いし)、生活に不安もあれば、もっと自由が欲すがったのしゃ(です)。
それで庄蔵さんの言う通りに二人で生活するごどにすますた。
俺は収入の手立てを探さねばなんねゃ(ならない)身だども、少ねゃ(少ない)給金でも日本語学校の先生とすて確実に収入のある庄蔵さんですた。
お陰様でイルクーツクの町を色々ど教えで頂きますた。時には二人で街に出で美味い物を食べ、飲みもさせで頂ぎますた。
また、テャトル(ロシヤ語の綴りはTearp、チャートル、劇場)とか言う日本で言う芝居小屋というのが、そごにも出がげますた。
踊りを見物す、日本では見だごどの無ゃ音を出す道具(奏でる楽器)をなんぼが(幾つか)知りますた。楽すがったべ(です)。
んだども(けれども)、その夏(寛政八年丙辰(西暦一七九六年夏)。流行り風邪をこずらせで庄蔵さんはあっけなく死んだのっしゃ(です)。一緒だったのは僅か二、三ヶ月だけですた。
俺は、庄蔵さんの最後の言葉も顔も忘れるごどが出来ねゃべ(ません)。
大分に白髪で、漂流すて十四年になる。有難う。そう言ったのっしゃ。
そすて、日本に帰りだがったー、帰ってひと目、生まれ育った海を見だがったーって、死の間際に涙をボロボロ流すて言ったのっしゃ(です)」
志村殿は筆記を止めて、年よりも老けた白髪の混じる儀兵衛の顔を見つめる。また、聞かねば確かめねばと己の気を顔にも出していた右仲も、貰いもした津太夫が素描の何枚かを手にしたままだ。
見れば昌永が柄にもなく目頭を拭った。
オロシヤに残った新蔵と庄蔵がどのような生活に有ったか聞くのは初めての事だ。儀兵衛が語るは実際の事だったろう。
だがこのことは光太夫殿(大黒屋光太夫)には言えぬ。法眼様(桂川甫周、幕府奥医師)に先に聞きもしていたことだったが、オロシヤ語の筆写のため吾があの御薬園に通っていたある日に光太夫殿が言いもした仲間とのオロシヤでの別れの様だ。
足の不自由な庄蔵が雪道に倒れながらも、雪道に足を取られても、立っては吾を追いかけ立っては追いかけ、一緒に帰る、日本に連れてってくれと泣いて訴えたのだと、涙ながらに庄蔵との別れを語りもした。
光太夫自身、ずーっと心に引きずってもいたオロシヤでの別れの一コマなのだ。
一緒に帰国した磯吉殿さえも、光太夫殿の語るに、知らなかった、初めて知ったと涙を流したのを(吾は)忘れてはいない。
光太夫は語ったあの時にも、新蔵と庄蔵とが同居して暮らし始めたであろう、後に支えあいながら生活することを想像していた。吾も聞いていてそうあれと思いもした。だが、新蔵の妻帯までは考えが及ばなかった。
儀兵衛はトコロコフが所に戻ってまた善六、辰蔵と一緒に住むことになったのだと語る。
そう言えば、光太夫殿等がネモロ(根室)まで一緒に来た通訳が居た。トボルコフと名乗ったと聞いているが、それが儀兵衛の言うトコロコフなのだろうか。皆々がトコロコフにオロシヤでの生活の有り様から風習などを色々と教えて貰ったはもっともな事だったろう。
場が少し湿っぽくもなったか。お茶にするかと気分転換に吾が言えば、珍しくも吾が淹れましょうと昌永だ。涙に濡れた頬を隠れて拭うのも良かろう。
吾の所に初めて顔を出した時の横柄さも太々しい態度も見ることの無くなった昌永だ。部屋を出ていく彼の背中を見送った。