サ イルクーツク
・遭難者を助ける制度
漂流十二年は長い。否、イルクーツクで凡そ八年暮らしたと聞くがそれとても長い期間だ。漂民一人一人の生活はどの様にして成り立っていたのか。
町を構成する建物や家屋、施設に何が有ったのか。オロシヤ人の日々の暮らし、習慣が如何あったのか。食べ物に何が有った、着る物の特徴は?。医療医術はどの様に有ったのか、その特徴は?・・・。
かつて光太夫殿や磯吉殿に聞きもした事でも今の世のオロシヤを、また和蘭や欧羅巴の今を知るにまたとない機会なのだ。この時を逃してはなるまい。
津太夫が応える。
「へえ。イルクーツクに着いだのは俺達が一番最後だべ(です)。
オロシヤ人であろうど無がろうど、船で難破すた者を助ける制度がオロシヤにはあん(る)のっしゃ(です)。
オホーツクのお代官様が遭難者と聞いで直ぐに駆げづげだごども、良くに面倒を見で呉れだ事も納得できますた」
海で遭難した者の為に、オロシヤには支援制度が有ると法眼様からお聞きした。その恩恵に預かったと光太夫殿(大黒屋光太夫)達の話にもあった。その通りらしい。
鎖国の日本では到底考えの及ばぬ凄い事では無いか。
「また、県のお役人様がら月々の銭子を頂きますた。
揃った十四人は最初の頃に日本語の通詞役のトコロコフの所で一緒に生活すたごどもあれば、ニコライとか言う名の日本語の学校の先生をすていだ新蔵の家とに二手に分かれで生活すたごども有んべ(有ります)」
儀兵衛は、一人当たり一ヶ月の生活費として銅銭三百枚が支給された。但し、その三百枚は直接受け取れるものではなく、食事等を世話して呉れるトコロコフや宿主のニコライに(新蔵)に支払われるものだったと語る。
・新蔵と庄蔵の消息
儀兵衛の話に頷いた左平だ。
「俺がイルクーツクに着いだ時、お奉行様の側に身なりはオロシヤ人だども、髪の毛も目の色も黒い人が居たのっしゃ(です)。
お取り調べ(質問)が終わっだ後に、俺は通訳すてくれるその方に何方様でと聞いだのっしゃ(です)。
若すかすたら日本人だべがと思って聞いで、日本語で答えが返って来たべ(のです)。
俺(俺の名)は新蔵と語り、元は伊勢の水主だった、乗って居だ廻船が難破すた。
今はオロシヤに住み改宗すたどがで、名はニコライ・バイトルイチ・コロ(コロテゲノ)・・何とかだど名乗りますた。
(俺の)開いだ口が塞がらながったども(けれども)、思わず新蔵さんの手を握ったのっしゃ(です)。
同ず日本人と言うごども有っけど、何年か前、俺が江戸に居った時、凡そ十年もすてオロシヤから戻って来た、難破した伊勢の廻船に乗っていだ船頭、水主が帰って来たど耳にすても居だれば、これで帰れる、日本に帰れるど思ったのっしゃ。
お代官様のお取り調べの後、誘いのままに新蔵さんが家にのごのご付いで行ぎますた。
早ぐ日本に帰るために如何すたら良いが、聞くごど教えで貰うごどが多いど思ったべ(のです)。
んだども(しかし)、期待すたような話っこは無ぐで、オロシヤ人の奥様と息子二人に娘一人を紹介されますた。
三人の言ってるごども分かんねゃべ(分かりません)、早々に退散すますた。
待っている儀兵衛さん達の所に行ったのっしゃ(です)」