「俺達には(理由が)分がりません。
ただ、俺達は道案内をするオロシヤの業者(馬方)と下役人等に見守られで、ヤクーツクとか言う町など数百里を旅すてイルクーツクという所に到着すたのです。
長い長い道のりですた。
それを思えば、春から秋の終わりまで移動す易い季節を選んだ、何人もが簡単に一緒に行げる旅ではねゃ(ない)ど言うごどになっぺ(なりましょう)」
「出発した日付、イルクーツクに到着した日付は分るかの?
二班、三班はどういう組み合わせだったのかの?」
「はい。丙辰の年(寛政八年)の五月上旬にオホーツクを出発すたのが左大夫に左平銀三郎、茂次平、太十郎ですた。十一月にイルクーツクに到着すますた。
三つ目(班)はその年、七月三日に出発すて十二月も下旬になってイルクーツクに到着すますた。
俺(津太夫)に吉郎治に、清蔵、市五郎、民之助、八三郎、巳之助だべ(です)。
途中、市(市五郎)が病気になってすまって、ヤクーツク(環海異聞に「匣哥都蛤」の表記。以後、ヤクーツク)という町に市を置いだままイルクーツクを目指すますた。
お役人様の手配で医者に診で貰うごども病院の床に横になるごども出来だ市ですたけども、(市が)淋すそうに俺を見づめだ顔を今も忘れるごどが出来ねゃべ(出来ません)。
道中何が起ごるが分んねゃ(分らない)、遅れで真冬になったら大変なごどになるど急がせで語る馬方も下役人も居ますたれば仕方ながったのっしゃ(のです)。
十四人はイルクーツクと言う町に集結出来だのっしゃ。
んだども(けれども)、(俺達を)追いがげるように市がヤクーツクで死んだと連絡が入ってきて、驚ぎもすたが皆が声を上げで泣きますた。
一緒に帰国すんべ(しよう)と励ます合っても居だがら、市(市五郎)の死は残念至極だべ(です)。
市は最後まで帰国の夢を語っていたのっしゃ(のです)。
言葉は分かんねゃ(分らない)げども、事情を知ったオロシヤの現地の人達も、馬方も下役人も涙を見せたのですた」
「市五郎の遺体は如何した」
「ヘェ。後で銭子ば払って、ヤクーツクで手厚く葬ってもらいますた。
仕方なかんべ(仕方のない事です)」
もっと聞きたいことも有ったが、質問を替えた。
「オホーツクからイルクーツの町まで、何里有ったかの?」
首を傾げる津太夫だ。後ろの佐平を見たが知らないのだろう、佐平は首を横に振った。連れて儀兵衛も首を振る。
津太夫が続けて語る。
「イルクーツクに向かった三つ目(三班)は時期も違えばお天道様の気配とて違うべ。
馬車を引ぐ馬の休憩等の取り方も違うべ。
皆々が、オホーツクからヤクーツの町までも五、六十日はかかった、馬だった、馬車だったと言います。
オホーツクでは人が移動するにも荷物を運ぶにも犬ですた。
犬は良ぐに飼いならされでいるど見えで、人の言うごどを良ぐ聞きます。
何頭もの犬が大八車にも似だ車、冬には橇を引っ張るのです。
(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、「環海異聞」に載る犬橇の絵図、再掲)
馬はいませんですた。馬を飼うには気候も厳すければ、飼料にも馬小屋を暖め置ぐにも銭子が掛がりすぎるど聞いで納得だべ(です)。
馬は何時も、ヤクーツクからオホーツクに運んでくる荷物の運搬や飛脚(郵便)に使われているのですた。
馬を扱う馬方もヤクーツク辺りの人だとてヤコーテとか呼んでいますた。
俺達の荷物を運ぶにも、俺達が移動するにも、ヤクーツクとか言う所から手配すた馬だったべ(馬でした)。
オホーツクは、十一月、十二月頃には海の水さえも凍りだすところですよ。川などは一面に真っ白、凍ってすまうべ(凍ってしまいます)。
