キ オホーツク
昼に聞き、夜にその結果をまとめ書くに、あれは如何した、それは何故かともう一度聞き、確かめねばと思うは何時もの事だ。
聞くことに集中すれば、吾の書き控えた事はたかが知れている。
だが、今に求められているのは御屋形様や藩のお歴々により確かな報告を上げる(奏上する)ことだ。僅かな記録とても、志村殿の書き控え置きし事と突き合わせねばならない。
また、何を絵に落とし込んだら良いか、三人からの聞き取りの後に御屋形様等の理解を助ける絵図はと、松原と打ち合わせる事も多くなってきた。
もう、正月も半ばを過ぎだ。聞き取り調査がいかに大変な物かと思いもするが、翻訳に役立ちもする異国のあれこれを聞くに、一層のこと面白味も関心も倍増する。
まだまだ先は長いと思いしもしていたが、水主達は二月も初め、いくら遅くも(二月も)半ばまでには仙台に返してやらねば、故郷に返してやらねばならぬと平賀様(平賀蔵人義雅)にお聞きしたのは今日の事だ。そのことは、聞き取り調査をそれまでに終えよということを意味する。
彼らが江戸を去れば絵図は出来ない。いや、彼らが居なければ出来上がった絵がオロシヤ等で見てきたこと、覚えもして来たことと一致していると誰も確認できないではないか。
年の初めに右仲との連絡を急いだは正解だった。(吾国は)鎖国の世なれば、オロシヤの絵を描いた者の名を出せぬと言いもした。それでも快く引き受けて呉れた右仲に感謝だ。
えっ?と驚き顔をした平賀様(平賀蔵人義雅)だったが、少しばかりの間をおいてご承認頂いたことにも感謝だ。他藩の者の参加と言うことで如何かと思っても居たが、吾の門人二人とお聞きして昌永の事も右仲の事もご承諾下さった。何処に在ろうと、四人が四人ともくれぐれも口を閉じよ、と仰せだった。
それだけで終わったのだから杞憂でもあった。平賀様にも感謝している。
「遅れて来て済まんの。お奉行様から呼び出されもして上屋敷に寄って来たでの。
構わん、志村殿の質問に答えるが良い」
「へえ。ガラロフ様が船は、先年に聞きもしていた伊勢の光太夫様等が漂着すたと聞ぐアムチトカ(環海異聞にアミセイッカの表記。以後、アムチトカ)という島にも寄りますた。んだども(しかし」)、港が無ぐ、俺達は上陸すませんですた。
ガラロフ様等はこごでもコージキ(アザラシ)や、セイウチとか呼ぶ海獣の皮類を一杯積み込みますた。アムチトカがらこれがら行ぐカミシャーツカ(環海異聞にこの表記。以後、カムチャッカ)まで海上千四百里と聞いで驚きますた。
(日本の一里は約三九二七メートルだが、オロシヤの一里(一露里)は約一〇六七メートル。津太夫達がその相違を知る由もない)
陸地の先端にある港だと耳にすて、いよいよオロシヤという国に上陸するのがど胸がときめぎますた。んだども(しかし)、カムチャッカは、オロシヤの入り口になると聞きもした港、オホーツク(環海異聞に「屋和都蛤」の表記。以後、オホーツク)までの途中にある所ですた。
カムチャッカは火を噴く山が多い所だとて、港からも煙の出ている山が見えますた。そごに滞在するごど二日ばがりで六月下旬だったべ(六月二十八日)、オホーツクという大きな港に到着すますた。
そごのお奉行様は遭難者と聞いで直ぐに駆げづげ、良ぐに面倒を見で呉れますた。お取り調べを受げだ後、十五人は間口六、七間、奥行き八、九間も有る、内は板敷きになっている家に一緒に住むごどになりますた。
食べる物も、島では殆ど魚に獣の肉だげですたが、麦の粉を餅のようにすた物を食べるごどになったのです。
嬉すかったーと言うが、有難がったです。んだども(しかし)、何とかすて国に帰りだいど願う俺達(漂民)は、イルクーツク(環海異聞に「伊尓歌都蛤」の表記。以後、イルクーツク)と言う町に日本人が居る、生活すているど聞きもすたれば、イルクーツクに行ぎでゃど懇願しやすた(しました)。
オホーツクは八月(西暦では九月)になるど雪がちらつきだすます。驚きもすたが、寒かんべど(寒かろうと)着る物とて綿入れの袷を支給されますた。
そすて八月十八日。この日を忘れるごどはねゃ(忘れもしません)。俺達の所へ役人が突然に来で、身振り手振りで何か言うべ(言います)。
良ぐに聞きもすれば見もすれば、支度をすろ、こごを出立するとのごどですた。
オホーツクのお代官様が交代するごどになった。直ぐに出発する。今回は三人だけ連れで行く。自分達で(行く三人を)早く決めろとのごどですた。
驚いたの何の。だけど何とかすてイルクーツクに行きでゃど皆が思って居ますたがら、話すあって文句の出ねゃ(出ない)ように籤引きで決めるごどにすますた。儀兵衛、善六、辰蔵と決まったのです。
その日のうづ(十八日)に出発すたのですから驚きですた。お代官様の交代のついでですたけども、三人はあっという間に旅人になったべ(のです)。馬に跨ったのっしゃ(のです)。
今思うど、持参する食料等荷物のごどがら判断すての三人だったべ(のです)。付き従う下役人が二十人ばかりも居だのには驚きますた。皆が冬支度だったのを覚えでいるのっしゃ(います)。
後に残った十二人も、いずれイルクーツクに行けるど希望を持ったのは言うまでもねゃ(言うまでもありません)。
そすて俺達は、翌年丙辰の年(寛政八年、一七九六年)の夏がら秋にかけで二つ(二班)に分がれオホーツクを出発すますた。西に向がいやすた。(向かいました)」
「二つ(二班)に分かれたのは何故かの、何か理由が有ったかの?」