イ 漂着
漂流して凡そ七、八カ月。甲寅の年(寛政六年、一七九四年)の初夏の頃、極北の一つの島にやっとに漂着した。
壊れた船と雖も、吾等を島に届けもした船だった。岩間に錨を下ろし、小舟に乗り換えて十六人が一緒に砂浜に立った。昼七つ時(午後四時)の頃である。
(「環海異聞に」は端舟とある)
浜辺までにも雪が有った。それでも肩を叩き合い、身体を抱き合ってお互いの無事を喜んだ。お互いの髭面が白い歯を見せた刻だった。
髭面に白い歯?誰ぞ言ったかな。(書き記したは)志村殿の思いか?
だが、近辺に草木無し、人家無し。米と必要な物を揃えんと交代で何度か船との間を小舟で行き来した。それで、米三俵を確保した。
島は絶壁で、周りと言う周りは岩が切り立っていた。一息ついて、皆が揃って周りの探検に出た。少しばかリの高い所に出て海を見れば、錨を下ろしたばかりの岩間の船は嘘みたいに波に打ち砕かれて姿も無くなっていたと語る。
手分けして、雪を踏み分け、人家を探したけれども見つからなかった。着いた浜辺に十日ばかり逗留した。
そこで、また御籤(御札)を作り占ったと語る。
三度占って、(ここは)人の住む島で、戍亥(西北西)の方角に五十里(約二百キロメートル)余り行けば人家が在ると出たと言う。
それほどに御籤が当たる物か?、光太夫殿からは御籤の話を聞いた事が無いが・・・。
そこで小舟を出した。十六人が一緒に乗った。
小舟に十六人が一緒か。死なば諸共にの心境だったか・・・。
陸地に沿いながら一日か、二日、島々を訪ね回った。
六月五日。とうとう煙が立ち上っている所を発見。人影が三人見えた。皆々が喜び興奮した。直ぐにも上陸したいと思った。上陸するに適当な砂浜を探した。
やっとに漕ぎ寄せたところ、浜には三人どころか三十人ほどが集まって来た。見れば、皆々散切り頭に髭を長く伸ばし、顔の色は浅黒かった。
着ている衣服は鳥の羽で出来た物か獣の皮で作った物で、いかにも異様な風体だった。
鳥の羽を身にした土人姿は、光太夫殿(大黒屋光太夫)も最初に上陸した島の事で語っていたな、
言葉を掛けられたと分るが何を言っているのか分からない。恐ろしくも思って居ると手招きで、(舟から)早く上がれ、こっちに来いといっているようにも見えた。
手招きされるものの、皆々が気味悪く思い尻込みした。
だが、左太夫だったかと言う。この小舟に何時まで居ても仕方ない、彼らが鬼であれば逃げる術とて無かろう。命を失うとも、一先ず上陸して見ようと皆に声をかけた。お互いに顔を見合ったが反対する者はいなかったと語る。
浜に上がろうとすると、土人達も寄って来て舟の引き上げを手伝って呉れた。そればかりか、女は桶や革袋に水を入れて持ってきた。男は魚を持ってきて、煮て食べようとの仕草だ。
彼等を恐ろしくも思って居たが、彼等は吾等を漂流して来た者、苦労してやっとに島に着いた者と承知している様子だった。
そこはオンデレーツケオストロという島だった。島民の生活の場は穴倉だった。
(参考図―早稲田大学図書館所蔵、大槻磐水(玄沢)著(問)、志村弘強(記)、「環海異聞」に載る「穴倉の島民」
以下、早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る「〇〇〇」と表記する。)
うん。漂民が見付けたのは穴倉から立ち上る煙だったな、そう言っていた。この地が何処になるのか、光太夫殿ならば恐らく見当がつくだろう、後に聞いてもみようか。
漂着を喜びもしたが、疲労と病から船頭の平兵衛が真っ先に亡くなった。吾等が記録では六月八日だったと語る。
医者も居なければ薬も無く、死に行く平兵衛が遺体に皆が取りすがり泣きもした。
うん、吾も医者だ。後に平兵衛が亡くなった病の症状を詳しく聞いてみるか。
(「環海異聞巻の一」には水腫とある)
残る十五人は島人達に良くに面倒を見て貰ったと語る。
[付記]:早稲田大学図書館特別資料館から「使用許可」を頂いた環海異聞に載る絵図は、今後、「早稲田大学所蔵本、環海異聞に載る「〇〇」と表記します。同館の所蔵本は文化4年の筆写と有って、環海異聞が発刊されたのが文化四年であり、原本に近い物の写しと理解できます。
