寛政六年の正月だったか、かつて藩の中で耳にした噂通りの荷だ。出帆したのは寛政五年、(みずのと)(うし)十一月二十七日。(西暦一七九三年十二月二十九日)

 船に乗りし者は十六名。年齢(とし)は船出当時のものとある。

 

一、(へい)兵衛(べえ)が沖船頭。(陸奥(むつの)(くに)牡鹿郡(おしかぐん)石巻(いしのまき)出身、三十一歳。廻船問屋、米澤屋平之丞(へいのすけ)が倅。

 寛政六年六月五日、オンデレイツケという島(環海異聞にこの表示。以後、オンデレーケ島。アリュ―シャン列島の中の一つの 島であるが同名の島が見当たらず諸説ある)に到着するも、間も無く(六月八日)漂民の一番に死す。享年三十二歳。

二、()太夫(だゆう)(かじ)(とり)役。(陸奥(むつの)(くに))宮城郡浦戸村寒風沢(さぶさわ)(はま)出身。五十一歳。倅あり、()()衛門(えもん)

 イルコウツカ(環海異聞にこの表示。以後、イルクーツク)から新都ペトルブルカ(環海異聞にこの表示。以後、ペテルブルグ)への途中に病気になり、帰国を希望するも落伍(断念)

三、(ぎん)三郎(ざぶろう)、水主。寒風沢浜出身。二十九歳。

  イルクーツクからペテルブルグへの途中に病気になり帰国を希望するも落伍(断念)

四、民之(みんの)(すけ)、水主。寒風沢浜出身。三十歳。倅あり、栄吉。

  寛政九年初め、八三郎と同時にイルクーツクで受洗、改宗した。

五、辰蔵(たつぞう)(たつ)兵衛(べえ)宅蔵(たくぞう)とも聞く)、水主。宮城郡石浜(いはま)(塩竃石浜)出身。二十二歳。

  寛政八年三月、イルクーツクで受洗、改宗した。

六、清蔵(せいぞう)、水主。石巻出身。年齢不詳。イルクーツクからペテルブルグへの途中に病気になり、帰国を希望するも落伍(断念)。

七、(はち)三郎(さぶろう)初三郎(はつさぶろう)とも聞く)、水主。石巻出身。二十五歳。寛政九年初め、イルクーツクで民之助と同時に受洗、改宗した。

八、善六(ぜんろく)(善六郎とも聞く)、水主。石巻出身。二十四歳。寛政八年三月、イルクーツクで辰蔵と同時に受洗、改宗した。

  また、同年の夏に、そのイルクーツクにある日本語学校の教師補になった。今も教鞭を執っているはずだと聞く。

九、市五郎(いちごろう)、水主。石巻出身。二十九歳。寛政八年十月二十三日、ヤコウツカ(環海異聞にこの表示。以後、ヤクーツク)で死す。享年三十二歳。

十、()()(へい)、(茂次郎、茂治郎、茂三郎とも聞く)水主。吉郎次(吉郎治)と同じ牡鹿郡小竹浜(塩竃)出身、二十九歳。

  享和三年五月半ば過ぎ、ペテルブルグで巳之助と同時に受洗、改宗。

十一、吉郎(きちろう)()、(吉郎次とも聞く)、(ふな)親父(おやじ)牡鹿郡(おしかぐん)小竹(こだけ)(はま)塩竃(しおがま))出身、六十七歳。

  寛政十一年二月二十八日、イルクーツクで病死す。享年七十三歳。

十二、巳之(みの)(すけ)、船の炊事係。石巻出身。二十一歳。享和三年五月半ば過ぎ、ペテルブルグで茂次平と同時に受洗、改宗した。

十三、()太夫(だゆう)()()。寒風沢浜出身。四十九歳。倅あり、善五郎(ぜんごろう)。両親、妻。

  此度長崎に帰着す。御年六十一歳。

十四、左平(()(へい))、水主。寒風沢浜出身。三十一歳。倅あり、長九郎。両親、妻。

  此度長崎に帰着す。御年四十三歳

十五、()兵衛(へえ)、(儀平とも書くらしい)世話万端係の者。(陸奥(むつの)(くに)桃生郡(ものうぐん)深谷(ふかや)(むろ)(はま)出身。三十二歳。

  此度(こたび)長崎に帰着す。御年四十四歳。妻子、母、兄弟有り。

十六、()十郎(じゅうろう)(太十、太平、多十郎とも聞く)、水主。桃生郡深谷室浜出身。二十三歳。

  倅ありと聞くも名を聞くを忘る。妻、弟有り。

  此度長崎に帰着するも自殺を図る。御年三十五歳、体調良からずと聞く。(応答が)席にあらず。

 イルクーツクからペテルブルグへの途中に病気になったのは左大夫、銀三郎、清蔵の三人か、感染する病で有ったか。それにしても帰国を諦めるほどの病とは・・・。病は何ぞや?

 巳之(みの)(すけ)が一番の若者か。見るからに志村殿の書き残すことの労力も大変な物だ。己が理解のために帰国出来た者、出来なかった者、死んだ者の三つに分けてみるか。

 帰国出来なかった者九人の個々の詳しい理由を知ることも必要か。

 お茶をお持ちしましたとお京だ。

 お京が部屋を出て行くに、湯飲みを手にして休憩だ。

 ここまでの整理に志村殿はどれ程の時間を要したのだろう。良くに纏めてある。