九 観心院の死去

 昨夜は久々にしこたま飲んだ気がする。寝付くのも早かれば何時に寝たかも良くに覚えておらぬ。末吉の手も、若い二人(玄幹と民治)の世話も借りずに済んだはまだ良い方か。

 二人は今頃に、そろそろ起き出しもしたか。よく眠れるも若さの特権だと思いもする。

(上屋敷の)御門が見えてきた。

 医者溜まりに腰を下ろしたに、観心院様のご機嫌伺いに顔を出さねばと思いもする。鏡を見るに顔に酒の痕跡(あと)は無い。

 足の指の付け根の腫れ、ふくらはぎのいささかの腫れを見るに観心院様は間違いなく痛風(現代で言う糖尿病)である。何時もの大防風(だいぼうふう)(とう)防風通(ぼうふうつう)聖散(しょうさん)を用意した。

「御病気見舞いにと、今に堀田様が観心院様の所に来ているとお聞きした。

 それ程に症状が重いのかの?」

 顔を上げれば、桑原殿(桑原純明(すみあき)。二代目・桑原(たか)(とも)、奥医師)だ。

「いや、そのようなことは御座りませぬ。

 桑原様も知る通り、観心院様の病(痛風)は長年にかかって身に出た物。

 今日の明日にと容態が大きくは変わらぬと思います」

(桑原殿の)後ろに子息が控えていた(桑原如則(ゆきのり)、後の三代目・桑原隆朝)

「そうじゃの、余計な心配じゃの。

 行って来なされ。観心院様の御傍(おそば)に堀田様も()る。

 良しなに挨拶を()されよ」

 桑原殿は偉ぶったところが無い。良くに出来たお方だ。堀田様の信任が厚かればこそ縁組のお話を頂き、子を持って出戻った娘子(桑原(のぶ))を伊能殿(伊能忠敬)が後妻に出すことも出来たのだろう。

 観心院様のお部屋を伺うに、静かなものだ。堀田様の後ろ姿が見えもした。

 何時も観心院様の側に在る御女中が駆け寄ってきた。

「院様は、今にお休みに御座います。

 今朝(けさ)方に御足(おみあし)が痛い、痛いとのお話が御座いましたれば、先ほどに桑原様(桑原純明(すみあき)。二代目・桑原隆朝))に処方を頂いたところに御座います」

 えっ、と思いもした。桑原殿にお礼を申し上げねばなるまいと急ぎ(医者)溜まりに戻った。

 聞くに、倅殿(桑原如則(ゆきのり))が父は先程に御屋敷を出ましたと告げる。

「御父上に、この大槻が感謝していたとお伝え下され」

(かしこ)まりました」

 それ以上の言葉は無かった。何ぞ観心院様との委細を聞きもしていたかと尋ねようとしたが止めた。

 この桑原殿倅(部屋住みの医員)もまたいずれ玄幹の同僚になる。玄幹が教えを頂くようになるかと改めて顔を見直しもした。

 

「貴方様、御屋敷からの使いの者だと言う方が来ております。

 (なん)ぞあったやに・・・」

 翻訳に冴えた頭だった。吾が眠りについたとてさほどの(とき)が過ぎたと思われぬ。揺り起こすタホ(妻)の顔を間近に見た。

 身繕(みづくろ)いもそこそこに座敷に顔を出すと、平賀様(奉行、平賀蔵人義雅(ひらがくろうどよしまさ))の言伝に御座います、至急参上せよとの事に御座いま、との言伝(ことづて)だ。

 思わず何が有ったと聞き返しもしたが、それ以上の事は何も聞いては居ないのだろう。

 道々にも観心院様の昨日のことが思われたが、まさか、まさか。悪い想像を打ち消した。

 明け六つ(午前六時)に近かろうが周りはまだ闇だ。商う店という店もまだ表戸を開けておらぬ。寒さだけが吾身を襲う。使いの者の差し出す提灯が風に揺れて陰影を濃くする。

 

 そんな馬鹿な・・・。何としたことだ。吾がもっぱら観心院様の治療に当たっても居たれば責任を感ぜざるを得ない。

驚きが過ぎると、涙を覚える。堀田様は如何(どう)したのだろう。

 虫の知らせか。吾より先に御仏の御側に控えておられた。昨夜にお帰りにならなかったのか。

「これも、天命かの?、

 気を()まれるな。吾もまたこのように成ると昨日にも思っても居なかったことぞ。

 後はゆっくりお休み下されと見送るしか仕方御座るまい」

 静まりかえった医者溜まりに吾を気遣う桑原殿(桑原純明)のお言葉が殊の外響く。後に駆けつけた桑原殿だが、吾も今に観心院様の死を確認して来たと語る。堀田様同様のお言葉だが、その慰めのお言葉に余計に涙を覚える。

 観心院様は吾の治療を信じ、時に冗談も言い、笑い、世間の流行り病を知って家臣やその子女等の健康維持さえもお気にかけてくれもしたのだ。

 間引きの風習が貧乏故と知れば、領内(仙台藩内)に間引きが有ってはならぬ、止めさせんがためにと民のために二万両もの私財を拠出されたお方だ。

 余りにも急なことに思えば涙が止まらぬ。(長崎)土産の品が如何のこうのどころではない。

(観心院年子(のぶこ)(誠子)、文化二年九月十六日、西暦一八〇五年十一月六日没。享年六十一歳。法諡(ほうし)(おくりな)観心院殿慧性衍(けいせいえん)(めい)()大姉(だいし)。仙台城下、黄檗宗(おうばくしゅう)両足山大年寺(りょうそくざんだいねんじ)に眠る)

            十 玄幹の縁組

 御屋形様(仙台藩第九代藩主。伊達周宗(ちかむね))はまだ九歳。周りに(まつりごと)の補佐体制が出来てあるとても御自身の身体が壮健ではない故、吾は余計に心配になる。

 凡そこの九年、観心院様が政事(まつりごと)さえも何かと切り盛りしているのを目の辺りにしてきた。また、近年、御屋形様に藩主の有り様を解いて居たとも耳にしておれば、(観心院様が)御亡くなりになったこの先、如何(どう)なるのかと思いもする。

 想いもしていなかったこと故に、倅、玄幹が嫁取りの話をこのまま進めても良いのかと迷いもする。

だが、聞きもして呉れた桑原殿(桑原純明)が、それこそ亡くなった観心院様に御報告出来る一番の祝い事ではないか、一番に診ても呉れていた、信頼していた大槻殿の嫡子の縁組とあれば喜ばぬはずがあるまいと言う。

 今に江戸番頭役に在る平賀様(平賀蔵人義雅)に、大和守殿御家中の御番医師、中村玄吉殿が娘と倅、大槻玄幹の縁組をお許し下されと願い出た。祝いの席こそ控えめにせずばなるまい。

(文化二年十一月十三日、西暦一八〇六年一月二日。大槻()()は大和守殿御家中の御番医師、針治療を得意とする中村玄吉が娘と縁組。

 官途要録には、願い出た文面が平賀蔵人様宛と記されている。この時の平賀蔵人は江戸番頭役にあった仙台藩奉行の一人、平賀蔵人義雅である)。

 狭かろうとも玄幹が若夫婦には同居してもらわねばなるまい。吾が壮健にあれば玄幹が部屋住みの身に在るは仕方あるまい。

いすれ後を継ぐ者として医師見習いと参内のお許しを得ずばなるまい。

 幼い御屋形様(伊達周宗(ちかむね)、満九歳)の身の周りを見るは、実祖母、正操院(しょうそういん)郷子(さとこ)(喜多山氏)殿と決まった。

 

[付記]:来週からは、日本人で初めて世界一周を体験して実に12年振りに日本に帰って来た宮城県石巻の船の乗組員、伊勢の大黒屋光太夫同様に乗った船が難破して、ロシヤに救われた漂流民の聞き取り調査に当たる大槻玄沢を紹介します。

  乞う、ご期待!