八 民治の報告

             ア 昇進

 四日()ったか、民治が顔を見せた。玄幹から此度(こたび)の旅のこと、田舎の事も長崎、平戸の事も粗方(あらかた)聞きもして居れば特に気になるは観心院様への土産(品)だ。

(民治が来たと)告げに来た小春に、熱いお茶を頼んだ。

「如何じゃ。昌平坂(学問所)も首を長くして待っておったろう」

「はい。その通りで御座います。

 そればかりか、驚きました。嬉しいご報告が御座います。

 帰府の報告にと尾州先生、古賀先生が所に顔を出し、学頭が待っているとのことで御二(おふた)(かた)共々学頭が御部屋を訪ねました。

笑顔で迎えて呉れた学頭は諸国の動静も長崎遊学の事もお聞きになり、そして最後に、其方の処遇が決まった、この学問所で教鞭をとれとの事でした。

 驚きましたよ。尾州先生、古賀先生が吾から離れなかったのはそれを告げるためで有ったか、先に三人が話し合われていたかと想像できました。

 七人扶持(ふち)と伝えられ、即座に、今後とも宜しく御指導御鞭撻下されと即答です。

 田舎(一関)の(ほう)に江戸に戻ったとの状(手紙)を書くに嬉しいの何の、学問所の教授の一人になると喜びの報告が出来ます」

 吾こそ驚いた。(民治の)先の事を考えてやらねばなるまいと考えていたに、民治は己で解決したではないか。しかも、ご聖堂と呼ばれもする幕府の(昌平坂)学問所の教授の一人に数えられるのだ。その身になるとは・・・。

「それは良かった。其方のこれまでの精進、努力による学問所への貢献、

 加えて此度の旅で其方が見聞を広めてきたことを評価されてのことに有ろう。

 今日はこの後に玄幹も入れて、否、吾家(わがや)の皆々で祝宴と行こう。

(今日は)この()に泊まるが良い。異存有るまいな」

「有難う御座います。

 伯父上に御報告すれば、きっとそのようになると計算の内です。

 今日は余計に腹を()かせて御座います」

 思わず笑った。これが民治の抜け目のないところであり憎めない性分だ。

 急ぎに(さかな)を手配するは難しいか。だが、今に江戸に評判の小田原の蒲鉾(かまぼこ)が有ろう。田舎(一関)から届いたばかりの塩鮭(しゃけ)(いのしし)鹿(しか)の肉、里芋(さといも)にキノコも有るハズだ。それに白菜、セリ、ネギなどの具材を揃えれば鍋物も用意出来よう。吾も民治も玄幹も好きな鍋だ。

 酒は男山(おとこやま)(うら)(かすみ)の熱燗だ。民治に言いながらに、吾のメイド(オランダ語の綴りはmaag。胃袋)とても期待している。

             イ 田舎での事

 このような席は久しぶりか。座敷に(ろく)五三(いみ)もめったに見ない大火鉢だ。火鉢にかかる大鍋を前にして興味津々、二人は顔をほころばせている。

「田舎は皆が喜んでくれましたよ。

 殊に、玄幹(陽之助)は田舎を出たときは三つでしょ。

 十五、六年振りの帰郷ですからね」

思わず頷いた。

「この江戸に居て七、八つの玄幹を見てもいる兄上(大槻(おおつき)丈作(じょうさく)、大槻家第七代大肝入。名を変えて大槻(おおつき)(きよ)(おみ))でさえ驚いていました。

 背丈も顔もまじまじと見ていましたよ。

 ハハハ、一言、段々と伯父上の顔に似てきたなと言ってました」

 苦笑しながら民治の盃を満たした。二人を迎えた田舎の光景が想像できる。

 妻が、六にも五三にもお碗に味噌味のする葉物に蒲鉾、魚の身を取り分けた。骨に気を付けてねと一言添えた。

「父(大槻(おおつき)(きよ)()、大槻家第六代大肝入。享和二年春没)のお墓参りを済ましてから、兄と吾と玄幹は(ずい)川寺(せんじ)(曹洞宗、一関市真柴千刈田)まで足を伸ばしました。

 瑞川寺の御住職とて大槻玄沢の倅と知って驚いていました。無理もないでしょう。

 また、伯父さんの江戸での活躍を聞きもしていると大層喜んでくれました。(伯父さんの)「蘭学階梯」を手に入れて読んだよと言って呉れたには余計に驚きました。

 ハハハ、お坊さんと言えば(仏)経典(きょうてん)。漢字だらけの経典。だのに横文字、蘭語のお話ですからね。それを想像しただけで吾は面白くも思いましたよ。

 卒塔婆が古くもなっていましたれば、兄上(大槻丈作)が新しい卒塔婆を立ててくれるよう御住職に頼みました。

 所要が有るとて兄はそこから帰り、吾と玄幹はまた何時(いつ)に一関に来るか分りません。それで、()(小春)の親戚と聞く中里村(一関市)の一軒家に顔を出すことにしました。

 江戸の水にすっかり慣れて、小春も元気にしておると近況を伝えれば、泣きもして喜んでいました。

 心配して居たから元気でいて呉れて何より、春ちゃんにも大槻様にも宜しく伝えて呉れと言伝(ことづて)を頼まれました」

 小春を見れば、(しゅ)(きん)を眼がしらに当てている。中里村の親戚と聞けばそれだけで身内の誰と想像も出来よう。江戸に来てまだ三年と言うのかもう三年と言うのか、聞けば殊更に田舎の事が思い出されるだろう。

「仙台でもお墓参りが何よりも先でした。一番お世話になったのは志村先生(志村東嶼(しむらとうしょ))でしたからね。

 父(大槻清雄、専左衛門))と殆ど同じ時期に他界しています。享年五十一(歳)と有りました。

 仙台から出羽に向かう時、先生の弟だと言う方にお見送りを受けてございます」

(大槻()()の師、仙台藩儒学者の志村(しむら)(とき)(もり)(号が東嶼)が亡くなったのは前年、享和二年五月二十四日、西暦一八〇二年六月二十三日である。

 また、(とき)(もり)の弟が志村(しむら)(ひろ)(ゆき)で有る。大槻玄沢が、後に仙台領石巻の難破船若宮丸の漂流民に係る聞き取り調査を命じられるが、一緒に聞き取り調査に当たったのが志村(しむら)(ひろ)(ゆき)である。この時点で(とき)(もり)の弟を知る由もなかった)