ク 山片蟠桃

「今では大阪でも押しも押されもせぬ升屋だが、升屋とてかつては経営が傾いていた、破産の憂き目にあったと聞きおる。

 父を亡くし、幼い主人(あるじ)である平右衛門の傍に、先にも話した良い番頭、小右(しょう)衛門(えもん)殿が居た。

 小右衛門殿の意見、教える所を良くに噛み砕き、受け入れる度量が平右衛門殿に有ったればこそ今の升屋の商売繁盛にもなっていよう。

 其方も民治も此度の大坂では中井(なかい)竹山(ちくざん)先生にお世話になって居よう。小右衛門殿は、その竹山先生が塾、(かい)徳堂(とくどう)で朱子学を学んでいる。

 また、其方も知る間重富等が学んだと言う麻田(あさだ)(ごう)(りゅう)殿が所の先事館(せんじかん)で天文、経済、歴史等を勉強しておる。

小右衛門殿は大阪でも名の知られる身になりもしたが、己は番頭の身、主人を超えて(おご)る気持ちを持ってはならぬと己を戒めるために「番頭」を(もじ)って名を「蟠桃」としたと聞きもしている。

 この事、覚え置くが良い」

 玄幹や民治のこれから先の事を思うについつい説教が事になってしまった。どの様に思うか理解したか、それもまた玄幹のこれから先の人生のような気がする。

(兵庫県高砂市米田町の「(かん)()公園」の中に、高さ三メートルにもなる「山片蟠桃」の顕彰碑と像が建立されている)

            ケ 先に送った土産品

「其方も此の旅で凡そ五十の諸国を観て来たことになるの。

 それで、外に思う所は何ぞ有ったか?」

「はい。御城下町と言われるところは何処に行っても賑やかでした。

 されど、一度(ひとたび)そこを離れると、汗水たらして田畑を耕す人、開墾に精を出す人、海に川に(りょう)に出る人、その無事を祈り、見送る妻子を多くに見ました。

 日々の生活はこうして営まれているのだなと思いましたよ」

 頷きながら、玄幹も大きく成長したな、旅に出した甲斐が有ったなと思う。

 これなら玄幹と民治の嫁取りをそろそろに考えても良いか。だが、先生が所の甫仙殿(後の杉田(すぎた)(りゅう)(けい))のように、先ずは日々の糧を己で得ることのできるように仕向けるは先か。その算段を思う。

「其方の長崎遊学も粗方(あらかた)知れた。

 大分に夜も過ぎたればそろそろ休むが良い。語るにも旅の疲れが出るからの。

 所で、観心院様への土産の品は如何した?、

 後に届くと?」

「はい。御心配有難う御座います。

 土産の品はとうの昔に昌平坂(学問所)の方に届いて御座いましょう。

 長崎を出立する前に、兄上と吾が一緒に観心院様への書画等を厳重に包装して学問所の方に送って御座います。

 学頭(林述斎)への贈り物、尾藤(尾藤二洲)先生、古賀(古賀精里)先生への土産の品と一緒に先に送って御座います。

 兄上は一番お世話を頂いているのだと、古賀先生宛てに贈り物の保管を依頼する状を(したた)めても御座います。

 江戸に戻ったら、漢詩を良くする学頭、古賀先生に教えを頂き和訳する、蘭語への訳は御父上に見て貰うと言っておりました。

それで絵に添えられてある賛も漢詩(かんし)、和文の(うた)、蘭語の(ぶん)になると、三国の詩文の出来上がりを己の頭の中に想像したのでしょうか。

 ニコニコしていましたよ」

(大槻民治(平泉)は、後に仙台藩の儒学者として迎えられる。その際に藩に提出した「儒学(じゅがく)家業(かぎょう)伝統(でんとう)来由(らいゆ)書上(かきあげ)」には長崎遊学時に観心院への土産物探しをしたことに触れ、観心院様六十(歳)の御年賀のため・・・三国祝いの章とも書一冊に編集し・・・と記述している)

 御祝いの品はその目出度き日を迎える前に贈呈するはもっともな事だろう。だが、観心院様が還暦を迎えるは九月という外に知らぬ。月の初めまでに贈呈すれば良かれと思って居たに、二人の帰府が九月も十日を過ぎたれば・・・・。少しばかり焦りを覚えもする。