キ 忍良信士

(およそ)三年もの旅、遊学の事は知れたが、墓参りの方は如何した?

 陽助の墓は如何(どう)にあったかの?」

「はい。この江戸に向けて大坂を出立する二日前になります。

 七月十一日。朝餉(あさげ)を頂いた後に、(升屋)平右衛門殿に叔父(おじ)上のお墓参りをしたい。寺や墓の場所を良くに知る()(しょう)(まち)の小西商店を先に訪ねたいと申し出ました。

 叔父上(大槻陽助)がかつて大坂に居たのだと知って驚いてもいましたが、小西商店は今や大阪でも大きな薬種問屋だと言いながら、訳も聞かずお店の小僧の一人を案内役に立てて呉れました。

 突然の訪問に小西長兵衛殿が驚いたは言うまでも有りません。若くもあれば、御父上の知る長兵衛殿では無かったでしょう。一代なのか二代なのか代替わりしていたのは間違いないと思います。

 事情を知った小西殿は、御父上も先生(杉田玄白)も良くに存じ上げている、御先祖様に聞いても居ると、そちらの話の方が長くなりました。近くにあった他の小西商店からも同族だ、親類だとお顔を見せる方もいていやはや一時はお墓参りも如何(どう)なるかと思うほどでした。

 叔父上のお墓参りがため、小橋(おばせ)(でん)光寺(こうじ)への道とお墓の場所を聞きたいと訪問の趣旨を話したのですが、今は堂島の升屋平右衛門殿が所にお世話になっていると話せばそちらのことに余計驚いて居ました」

「升屋は仙台藩の財政立て直しの立役者だからの、その評判は世間にも知れていよう。だがの、藩のお歴々は仙台城下にも来た平右衛門殿(寛政七年初下向)よりも、平右衛門殿を支えている番頭の小右(しょう)衛門(えもん)殿に感心しておる。

 番頭は若い主人(あるじ)を支えて如才(じょさい)無く、己の手柄も平右衛門殿の手柄にしておると聞く。

それを耳にして吾はつくづく思うことも有るがの・・・、

先を聞かせるが良い。」

 言いながら頭の中には生前の陽助も、伯元も明卿も、先輩の有坂さんも法眼様も順庵先生も、また先生(杉田玄白)は勿論のこと、亡くなった良沢先生、工藤様、朽木侯が浮かんだ。己の今の身があることとて多くの友人、先人に支えられてのことと思いもする。

()(しょう)(まち)(大阪市中央区)から小橋(おばせ)の傳光寺まではそう遠くは御座いませんでした。

 暑い最中(さなか)でしたけれど、長兵衛殿が店の小僧一人を連れて態々(わざわざ)に寺まで案内してくれました。

 途中、仏具屋にも、花を売る店にも和菓子を売る店にも寄りました。

 お墓周りは綺麗に草取りもして御座いましたが、あちこちに小さな雑草が生えてもいました。何方(どなた)かが植えて呉れたのでしょう。丈も高く百合の花が一本、丁度盛りに咲いていました。それが何とも、印象に残っています。

 墓石の正面に「(にん)(りょう)信士(しんし)」と有り、左横には千葉(ちば)(りょう)(すけ)の名と、亡くなった日が刻まれていました。

(享年)二十五(歳)と有りました」

(大槻()()は、享和元年(西暦一八〇一年)秋からの六十日間の西国遊覧とこの長崎遊学の時に訪ねた人々、会った人々の名を己の同じ雑記帳に残している。その最後のページに、七月十一日、傳光寺、「忍良信士」と記録している。

参考図―早稲田大学図書館所蔵、大槻平泉、雑記帳)

「其方は誰のお陰で今の生活が出来ている」。陽助(弟)から先々の相談を受けながらに、途中、言い放ちもした己の言葉だ。凡そ二十五年経った今も後悔の言葉として残る。

 あの時に、何故にもっと聞く耳を持たなかったのか、何故に其方の思う処で、其方のやりたいことで頑張っても見よと言えなかったのか。倅(玄幹)の報告を聞きながらも、心の中で合掌するほかにない。陽助、許せ。

「この世の事は何事も己一人では出来ぬものぞ。

 生きると言うのは大変なことぞ。

 己がしたいことは何か。自分で自分を生かせるのは何か、一生、生業(なりわい)として行ける事なのか。それを探し当てる事は容易な事では無い。一生涯かかってそれが見つからない人とて居よう。

 吾は父上(大槻玄梁)に医業の道を教わり、建部清庵先生に豪傑の道を教えられ、その道を進まんとて杉田玄白先生、前野良沢先生を知った。

 その四人だけではない。遣りたいことをコツコツ努力しておれば何時しか周りに支えてくれる友人、仲間が増えもした。支援してくれる人、苦言を言いもしてくれる先輩、指導してくれる先人が出ても来た。

 金持ちになりたい、いい物を喰いたい、良い屋敷に住みたい、人を連れもして旅をしたいなどと人の欲にはキリが無い。その欲を先に考えてはならぬ。欲の一つを得るにも、支えてくれる人の意見や先人の教えを聞く耳を持つことじゃ。

その度量こそが一番に大事かもの」

 言い聞かせながらに、今ある升屋の事も話して聞かせようとの気がしてきた。今や(仙台)藩の資金調達を一手に仕切る升屋だが、その裏には主人を支える謙虚な切れ者の小右(しょう)衛門(えもん)殿、後に山片蟠(やまがたばん)(とう)と名を変えた御仁が居るのだ。