オ 長崎の蘭和辞典情報

「はい。そう心して長崎に行ったのですが、正直に申せば新しい医学書(洋書)の幾つかを入手した、本草学の新しいであろうと思う書を手にしただけに御座います。

 本草の書は御父上が親しくしても御座います栗本様(幕府奥医師、四代目栗本(くりもと)瑞(ずい)見(けん)、本草家。実父は本草家田村(たむら)藍(らん)水(すい)でその次男。栗本家の養子に入った)に、とうに世間に知れた書だと笑われるかもしれません。

 兄上(民治)は、蘭語の文字を学ぶアベブック(AB Boek)、蘭語の日常会話を学ぶサーメン・スプラーカ(Samen Spraak)に興味津々でした。

 吾とても蘭語の文法を学ぶオップステルレンOpstellen)に感心しました。蘭語で文章を作ることに挑戦してみました。

 単語は、エンケルウォールド(Ennkel Woord)で学ぶと言う事でしたが、稲村三伯殿のハルマ和解の情報の影響もあるのでしょう、地元でも蘭語の辞典を作ろうと話が進んでいるとの事でした」

「なに?、蘭語の日訳辞典?」

「はい、そのようにお聞きしました。

 仏蘭西人のハルマとか言う人の蘭仏辞書を日本語に訳すのだとか」

「・・・・」

稲村のハルマ和解の草稿が頭に浮かんだ。長崎の通詞達の手によるものが出来るとあれば、資金力のある長崎だ。稲村の横文字に縦書きの翻訳、和文よりも良い辞典が出来るだろうと想像がつく。

(実際は享和三年、西暦一八〇三年に長崎オランダ商館長に着任したヘンデレキ・ドーフが、通詞・中山得十郎や吉雄権之助等の協力を得て文化十三年(西暦一八一六年)に蘭和辞典を完成させた。通称、「長崎ハルマ」と言われるものである。

(参考図―早稲田大学図書館所蔵。稲村三伯訳編「ハルマ和解」)の一部)

            カ 観心院様への土産品

「志筑先生や末次殿の御計らいに馬場殿の案内もあって出島も唐人屋敷も小島郷とかいう地に在る御薬園も見学出来ました。

大いに役立ったは二、三年前になりましょうか、享和二年に売り出されたと聞く「肥(ひ)洲(しゅう)長崎図」です。

(参考図―享和二年肥(ひ)洲(しゅう)長崎図。手元に同図写しを入手してあるが某所蔵図書館に使用許可申請を忘れここに掲載できません。ご容赦下さい)

 御国許(おくにもと)の何処に何が有るかなど藩の地全体を表す絵図など、秘密主義の世にそうそう御座いませんでしょう。御薬園では御種人参の栽培もして御座いました。

 地図を頼りに兄上と色んな所を訪ね歩きました。異国情緒がタップリ溢れる長崎で御座いましたが、お寺が多いのに驚きましたよ。

 風(かざ)頭山(がしらやま)の裾野等に有る唐人墓地や、稲佐山の異人の墓地にも行ってみました。稲佐の山から視界の広がる青い海に驚かされました。江戸で見る海とはまったく違って見えます。

 風光明媚なことに変わりは御座いませんが、遙か彼方に異国だと聞く島影が見えたのには驚きました。

 そうだ。驚いたと言えば、兄上が異国の品、殊に書画を買いたいと言い出して洋物を扱う店を幾つか見て廻りました。

 聞けば御父上からの頼み事だと聞いて驚きましたよ。頼んだ理由を聞きもしましたが、兄上自ら言っておりました。己とて絵図も書も良し悪しが良くに分からない。ましてや女子の好みは何処に在るのかとぶつぶつ言い、何が観心院様の還暦の祝いの品に相応(ふさわ)しいのかと思案投げ首に御座いました。

 終(しま)いには、どう思う、良いと思うか、女子(おなご)が良いと思うか、と選んだ品物を吾に確かめる始末でした。

店(たな)の主人(あるじ)も手代も、見ても居たればしびれを切らしたか、聞きもして一緒に品(しな)探しをして呉れました。どれもこれも結構な値(ね)がしていました。

 最後の決め手は御父上の御言葉でした。観心院様は書画を好む、詩歌が書き込んである唐人の書画を好むと言われたと思い出して、兄上はそのような書画を選びました。手代の言う、御禁制品では御座いませんも決め手になったかと思います。

 洋画を避け、唐人の絵に詩文の書かれてある書画を選びました。兄上は。唐人の詩文を和訳し、阿蘭陀語に訳して、三国の祝いの言葉を添えて仕上げよう、贈り物にしようかと一工夫をお考えです」

 聞きながらに、民治の今後の事を考えればこの時が大きな機会も知れない。(民治に)昌平坂学問所の教授の道にかかる話があるやもしれぬが、仙台藩の職を食む身になるには今ぞ、観心院様への土産品にことよせて堀田様に民治を引き合わせる事も良いかと思案が巡る。

「其方らが長崎で学んで居る頃、凡そ一年前になるがの。日本海沿いの鶴岡、酒田。その出羽から秋田も本庄(現、由利本荘市)にかけて大きな地震が有りもした。

(文化元年六月四日の象潟(きさかた)地震、マグニチュード7・1とも推定されている)。

 凡そ四千もの家、屋敷が倒壊、破損した。火事騒ぎも有ったと聞き、其方等の身を心配した。地震の事、知って居ると?」

「いえ、初めて耳にすることで御座います」

「吾はそれを耳にして、其方も民治も如何した、今何処に居る、大丈夫丈夫かと気が動転しての。

 思い直せば、そうか、今は其方も民治も長崎に居よう。被災した方々には申し訳ないがそれなら安心じゃと、あの時は驚きと安堵とが一緒だった。

 後々のことも有る。これからは旅に出もすれば必ずに今に何処に在ると、日も記して状(手紙)を認(したた)めることを心掛けよ。

旅先での日々の出来事を書き控え置くことは大事なことぞ。

 後々に、旅日記とて一つの書にもなりもする。発刊に繋がることとて有り得ることぞ」

 少しばかり説教じみたが、どうしても言っておかねばなるまいと思いもした。これが初めて子を旅に出した親の心境か。