イ 華岡雲平(華岡青洲)
その後に京、大坂に在って、吾の世話になった友人、知人との交流を果たしもしたが、驚きもしたのはこの江戸への帰り道、淡路から摂州(兵庫)を経て大坂に出てからだったと語る。
「大阪も梶木町と言う処で、升屋平右衛門殿方に兄上共々数日お世話になりました。
父上の紹介状が大いに役立ちました。行きにも帰りにもお世話になっております。
流石に仙台の藩米を一手に扱う仲買人、両替商ですね。
(「仙台市史、近世Ⅰ、藩政」に、仙台藩七奉行衆(石田豊前準直、但木志摩明行、遠藤近江元長、松前和泉広文、片倉小十郎村典、泉田大隅倫時、中村日向景貞)が連署して升屋平右衛門に宛てた一札には「寛政八辰年ヨリ大坂(へ)勝手方仕送(り)金調達一手(に)被相頼、其節之申合諸事無滞相立候(ハ)、永久之儀御請可有之義定証文相渡置候処・・・」とある)
驚いたはその店の造り、大店、商売の事では御座いません。御父上が何時ぞやお話になった木村兼葭堂もさぞやこうあったのだろうと思うほどに天文、地理、測量から読み本、歌舞伎、浄瑠璃、絵画、陶器、骨董、そして医療医術等に実に詳しい方に御座いました。
行きは時間も無かったのですが、帰りは長居させて頂きました。兄上共々夜にそれらに掛るお話を度々お聞かせ頂いてその都度驚いたところです。
去年の秋(文化元年十月)に紀州藩も西野山村と言いましたか、そこに住み、藩医でもありながら村人の治療をしているとか言う華岡雲平とか言う御仁が、一人の老婆の胸の岩(しこり、乳癌)」を取り出す手術をしたと言うのです。
驚きました。女性の胸を切り開いたと言うのですよ。耳にして驚きもしたに、「麻沸散」とか言う人が痛みを感じ無くて済むという薬を飲ませて、それからに手術をしたと言うのです。岩(しこり)を取り出したというのです。
身体を切り刻まれて痛みを感じなくて済む飲み薬などこの世に本当にあるのでしょうか。痛みに泣き叫ぶ患者、流れ出る大量の血、血だらけ。その場が想像されて思わず両肩がブルっと震えましたよ。
老婆はその後も華岡殿の治療を受けながら数カ月生き延びたとお聞きしました。
(父上は)このことご存知でしたか?」
そう語りながら、今も驚き顔の目をする玄幹だ。
吾は頷きもした。
「詳しくは知らぬがの。この春に(仙台藩の)医者溜まりでそのことを耳にした。
外治(外科)を得意とする方で紀州藩、華岡青洲殿と聞いておる。
その名を覚え置くが良い。
昔、この日本で初めてに解剖をしたは、京(京都)に在った古医法の山脇東洋先生じゃ。その先生の門下生の一人に永富独嘯庵と言う長門国の出の医者が居る。
永富殿はこの江戸にも修行に来たことがあると聞いたが、面識はない。吾や其方と同じように長崎にも行った方じゃ。
蘭学の翻訳にも医療医術の指導にも名の高かった吉雄耕牛先生、吾も長崎で散々にお世話になった先生の所に出入りしたと聞く。
そして、後に自身で書き留めた「漫遊雑記」と言う書に胸の岩(しこり)の治療法に触れ、欧羅巴では手術で治療すると披露しておる。
未だ日本でその手術は行われていないが、後に続く医者に期待すると書いて居った。その書き現わし方からして、己自身で研究もしたかったのだろう、手術出来るようになりたかったのだと思う。じゃが三十五歳と言う若さで亡くなってしまった。
華岡殿は後に続く医者に期待するとの一文に感動しての。患者の耐え難い痛みを無くさんがための方法を、人の命を救いたいとの一心で日夜追求したと伝わって聞きおる。そうとなれば、その様は正に今の世の豪傑じゃな。
其方と民治が京で訪ねもした小石元俊殿は永富殿の弟子じゃ。また、三年前に亡くなりもしたが、吾の蔫録の校正をしてくれた小田享淑殿(小田済川、寛政十三年一月十五日没)は永富殿の実の弟じゃ。
曼陀羅華(朝鮮朝顔)の実に、草烏頭(トリカブト)などの薬草を調合して「麻沸散」を造り出したと聞いておるが、確かでは無い。
其方も知っていよう。曼陀羅華の実も草烏頭(トリカブト)も大そうに毒のある植物として知られておる。何をどの様に調合したかはいずれ分るとても、犬、猫、ネズミ、ウサギ等で実験を重ねてしびれ薬を作り出した、人が大きな手術に耐えられるほどのしびれ薬を作ったと言う事じゃ。
造る方法とて秘伝中の秘に有ろう。人を殺すことも出来る曼陀羅華の実に草烏頭等を使ったと聞けば医者と雖も己の耳を疑いたくなる。
外に特に記憶に残ることは、何が有った?」