七 玄幹の報告

            ア 故郷

 観心院様の御様子を伺った。

 何時ものことながら菓子など甘い物を控えるようにと御忠告を申し上げ、御薬を差し上げたばかりに御屋敷を早々に退散した。

 良くに寝たか寝れたかと聞いたは九つ半(午後一時)にもなるか。

 遅い朝飯とても、お京も小春も呆れたように二人の箸の先を見つめる。

 おかずが足りますかと、焼いたメザシと漬物を心配する小春だ。

「慌てるな、食べ物は何処にも逃げもしない。

 擦()()ろしは足りるかの?、もっとあるのか?」

 二人の旺盛な食欲に(あき)れながら、山芋(やまいも)はまだ有るのかとお京に聞く始末だ。

 流石(さすが)に若い二人だが、玄幹がこれ程までに食べるのをかつて見たことが無い。(どんぶり)四杯目になる。民治はもう六杯目だ。

 食が進むは健康な証拠だが、玄幹が(たくま)しくなって帰って来たかと思うは親の欲目か。

 途中、小春がお茶を淹れ直せば、美味(うま)いと民治だ。酒を良く飲んだ翌日にはお茶が一層美味いと言う。とうとう吾は、食べながら聞くが良いと言った。

「聞きたき事は山ほどにある。

 じゃが、民治は()ずは先に学問所に顔を出し、戻って来た(帰府した)と伝えるが良い。

(昌平坂)学問所とて、何ぞ用事が()まっていよう。凡そ三年もご無沙汰して()ったからの。

 後々の事もあれば、教授方、同僚方と仲を良くにしておく必要があろう。

 玄幹は後に吾の書斎の方に来るが良い。

 小春。吾の方(書斎)にもお茶を頼む」

 玄幹が部屋を覗いたはそれから四半時(約三十分)もしてからだ。遅いと小言の一つも言いたくなったが、改めてお茶を口にして少しばかり気を静めた。

 民治が今に学舎の方に向かった、伯父上に宜しくとの事に御座いますと報告する。

 差し向かいに、吾が出し置いた真夏の時期(とき)のままの()(ぐさ)の座布団を尻にした玄幹だ。問わずにも田舎(一関(いちのせき))の事を語る。田舎の方々は大喜びで吾と民治を迎えた。まだ二、三歳だったのに、(まこと)に陽之助かと頭を()でられたと言う。

「目出度いが故の(もち)だと、何度も餅を食べさせられましたよ。

 胡桃(くるみ)(もち)とか、じゅうね餅(エゴマ餅)だという珍しい餅を口にしました。

 江戸では口にしたことも無い餅ですね」

ニコニコしながら語る。

「一関周辺の町や村はの、正月に限らず一年を通して何かの祝い事、祭りごと、田植えや稲刈りの後にも餅を食べる習慣だ」

 聞いている己とて、田舎を思い出しては話して聞かせたくもなる。

(一関を)出立したのは三月も末。それまでに中里にある大槻家ご先祖様のお墓参りをした(現、一関市中里沢田、曹洞宗(そうとうしゅう)龍沢寺(りゅうたくじ))。指示どおり真柴(ましば)(ずい)川寺(せんじ)(現、一関市真柴(ましば)(せん)刈田(がりだ)曹洞宗(そうとうしゅう))を訪ね、祖父(玄沢の父、大槻(おおつき)(げん)(りょう))のお墓参りをしたとも語る。

御父上(おちちうえ)(玄幹にとっては祖父)の墓(まわ)りは如何(どう)に在ったかの?」

「はい。寺の小僧がしているのか大槻家の誰かがして呉れているのか分かりませんが、(じい)(さま)(祖父)の墓とても墓周りも良くにして御座いました。

 ただ、卒塔婆(そとば)が何年()ったものか、戒名の文字が(ろく)に読めないほどになってもいました」

 その卒塔婆を新しくしたか、御住職に頼んだかと聞こうとしたが止めた。遠く(江戸)にあろうとも、墓守りの責ある己がせずばなるまい事だと思いもする。

 仙台で、(田舎への)行きに兄上(大槻民治)の師匠だったという志村(しむら)(とき)(もり)殿(志村東嶼(しむらとうしょ)、仙台藩の儒学者)のお墓参りに行った。また、戻って仙台から出羽に行く前には、その仙台で志村殿の弟だと言う方にお会いした、お見送りを受けたと語る。

 玄幹の話から民治が江戸に来たばかりの頃を思い出すとは思いもしなかった。あの時、師匠に付いてのこのこ江戸にきましたと突然、挨拶に来た民治だった。

(大槻玄沢は後に志村(しむら)(とき)(もり)が弟、志村弘強(ひろゆき)と共に石巻の遭難船若宮丸の漂流民、四人の聞き取り調査に当たる。(のち)の大槻玄沢(とい)、志村弘強()の「環海(かんかい)異聞(いぶん)」に繋がる)

 後に、凡そ二月(ふたつき)も加賀に滞在した。養生した、過ごしたと聞いた。民治が麻疹(はしか)に感染しなくて良かった、幸いだったと改めて思う。