六 玄幹と民治の帰府
「来ました。帰ってきましたよ!」
飛び込んできたと言っても過言では無かろう。たまたま、台所にいる妻(タホ)にお茶を淹れ直して持ってくるようにと頼んでいる時だった。
玄幹と民治の帰郷を伝える小春の声が大きかった。妻に甘えていた六(六次郎)は、きょとんとした顔だ。
表の掃除に立っていたのだろう、小春は己の背丈ほどに有る竹ぼうきの柄を手にしたままだ。
凡そに三年ぶりになるか(実際は二年八カ月ぶり。文化二年九月九日、西暦一八〇五年十月三十日帰府)。
二人共日焼けした顔にあれど、さっぱりとした顔をしている。吾にも覚えがある。江戸入りの前日に髪を結い直し、今朝にも髭を剃った顔だ。
玄関口で、お京と小春の用意した桶に無造作に足を突っ込んで自分で洗う。それを見ているのももどかしく、上がれ上がれと二人を座敷に誘った。
旅の事どもは多くに聞きたけれども、無事に帰って来た安堵の方が大きい。
「イヤー、懐かしくもあります。
帰って来たなと思います」
帰京の挨拶もそこそこに、広くもない座敷の中をぐるりと見渡した民治だ。己が家だと言うに、釣られて玄幹さえも見渡した。
お茶を淹れて来た妻を紹介した。二人の驚く顔に構わず、純が二年前の六月に麻疹が原因で亡くなったこと、去年の春に再婚したことを告げた。
「タホ(妻)じゃ。
其方も麻疹に罹って養生しているとの状(手紙)に驚きもしたし、心配もした。
癒えてこれから京、大坂に向かうと有った(状が届いた)時にはホッとした。
吾の体験からも長崎に居る期間が丸々一年は有った方が良い。世界を知るに見聞を広めるに長崎ほど良いところは他にない。
(長崎に)到着が遅れると知って、藩に(其方等の)遊学期間延長を申し出たは正解じゃった。
されど、二度目の願い(お許し)をこの五月までとしたになかなか帰って来ず心配もした。何処ぞ途中でまた玄幹の持病、癇気(さしこみ、)腰痛が出たか、養生が必要になったか、途中、大井川の川止めに遭遇ったりしてはいないかと心配にもなった。
(官途要録)
二人の顔をこうして見られるは嬉しいことぞ」
「ご心配をお掛けしました。
何処に行っても、また長崎に居る間も兄上(大槻民治)に心配かけるばかりでした。
吾一人ではとてもとても、筑紫州(九州)にも南街道(四国路)にも淡路にも行けませなんだ。
帰り道にも摂州(兵庫)を経て泉(大坂)に着いた時にはホッとしましたが、途端に気が緩みもしたれば一遍に疲れが出て寝込んでしまいました。
兄上の看病が無かったら、それこそ心細い限りでした」
目の前で、民治に改めて顔を向け頭を下げる玄幹だ。
「何。人それぞれでしょうけれども、辛抱すれば救う神は現れるもので御座いましょう。玄幹にとって此度は吾がその役割を果たしたということに御座いましょう。
吾もまた、玄幹に助けられたことも、命拾いしたことも御座います。
平戸も生月島で初めて目にした捕鯨の時でした。多くの小舟、漁師が挑む捕鯨の漁場は、聞いていた、想像していたよりもはるかに凄まじいものです。
吾は興奮して、危うく乗っていた小舟から海に落ちる所でした。
咄嗟に後ろから吾の腰を確と押さえ掴んだは玄幹です。
命拾いの神の手にも思えることでも御座いました。
田舎に居った時の川遊びで少しばかり覚えのある泳ぎ(方)でしたけれも、(海に)落ちていたら吾は確実に溺れても居たでしょう、死んでいたかも知れないのです。
慣れぬ小舟の上とて、実は大分に舟酔いしていたのですからね。
周りが暗いうちから篝火で鯨も他の魚もおびき寄せ、やがてに漁が始まります。
段々と夜も明けますが如月(二月)も始めの冬の海です。
凍てつく寒さに折からの北風に煽られて、時折、大波小波のしぶきが顔にも身体にも容赦なく降り注ぎました。
(波しぶきは)とてもに冷たく、見物しているとても正に命がけですよ」
捕鯨にかかる民治の話が、長い期間の旅の報告、長崎遊学を語る始まりになりそうだ。このまま続いて聞きたい気もするが、疲労しても有ろう。
「うん。ゆっくりと旅の話も聞こう。長崎に居った折の事どもも聞きたいでの。
じゃが今日の処はまずは風呂を使うが良い。大風呂に浸かるが良かろう。
(風呂屋が)近くに有れば、玄幹共ども旅の垢を流して来るが良い。
早めに酒肴、夕飯を用意させるでの。
今日の所は風呂に浸かり、酒肴に、この屋でゆっくり休んで明日からにも話を聞かせて貰うでの。
(昌平坂)学問所に顔を出すとて、その報告の必要も有ろう」
「はい。この江戸入りのためにと昨日にも神奈川宿で風呂を使いました。
されど、流石に此度は一度の風呂で溜った疲れを流せません。
贅沢にも御座いますが、お言葉に甘えてそのようにさせていただきます」
「父上、今日は吾の誕生日でも御座います。二十一(歳)になります。
(吾の誕生日を)覚えて御座いますか」
「ハハハハハ。忘れでか(忘れていない)」
思いもしていなかった一言だ。忘れてもいたが、覚えてもいると相槌を打った。
「酒は何にする、浦霞も男山もあるぞ」
「兄上は辛口が好きとこの旅で分かりました。
男山にしましょう」
玄幹に頷きもした。顔を崩した民治だ。刻を見計らって、明日にも三つの頼みごとが如何なったのか確かめねばならぬ。