四 先生(杉田玄白)の祝い事

 五月にもなればと首を長くして帰りを待ったに、玄幹から相変わらず音沙汰無しだ。民治からの状(手紙)も無い。

二人の行方が分からずも、今に江戸番頭にある石田様(仙台藩、奉行の一人、石田(いしだ)豊前(ぶぜん)準直(のりなお))に、拙者嫡子同氏玄幹儀、長崎からの帰府は暫くお待ちいただきたいと願い出た。(官途要録)、

 それから間もなくに玄幹からの状(手紙)だ、五月に長崎を発った、されど今に四国から大坂に戻りしも疲労(ひろう)困憊(こんぱい)にあり、養生しているとの便りだ。

 心配も心配だが、兎にも角にも連絡が有るうちは良い。今暫く帰京が遅れると改めて石田様に御報告を入れた。

 

 正に夏と言えようか。じりじりと陽の照るに額の汗は留まるところを知らない。この好天が東奥(みちのく)にまであれ、田畑に良かれと願うは例年(いつも)の事だ。

 伯元殿からの情報を耳にして、早くにお祝いを述べに伺わねばと思いながら盆の入りになってしまった。

「おめでとう御座います。如何で御座いましたか」

「ハハハハハ。(いや)、七十三(歳)にもなるこの年齢(とし)でも緊張することが有ると良くに分かった。

 将軍様の拝謁(文化二年七月二十八日)が叶うなど、夢にも思ってもいなかったでの。法眼殿(桂川甫周)の御配慮か。昌平黌、学問所の誰ぞ(柴野栗山等学者)に吾の事を聞きもしていたか。

 この老いぼれに何故に今になってお呼びが掛ったか分らん」

「いえ、いえ、蘭学の世を築かれたのも、異国の諸々(もろもろ)を今に伝え有るも先生の功績。

 それが故に御座いましょう」

「うん、話しに医学医術、天文、地理、測量等の話が出たでの。

御殿様(徳川家斉、江戸幕府第十一代将軍)も世界に大いに関心を御寄せになっていた。

日本(ひのもと)に)入って来る異国の品々ばかりか、地理、測量の話がお耳にも達して居れば、世界は如何になっているのかと思うは当然のことに御座ろう。

 吾から天文、地理、測量等の事を詳しく話せるわけもなく、長く健やかたれと予め御用意した滋養強壮の御薬(ごやく)を差し上げた」

「至極、当然の事で御座いましょう」

伯元殿も頷いている。

「それが翌日(二十九日)、将軍様にお目見えは藩(小浜藩)にとっても目出度いことだと話が有っての。

(小浜藩の医者として)御近習頭格を命ぜられもした。

 五十石加増と言われ、元の二百二十石取りとなった。

 甫仙(後の杉田(すぎた)(りゆう)(けい))に譲りもした五十石だったが元に戻りもした」

「先生の今を思えば、当然の御計(おはか)らいで御座いましょう。

 重ね重ね、御目出度きことに御座います」

「ここと目と鼻の先、(浜町の)河岸(かし)山伏(やまぶし)井戸に新たに甫仙の家を建てることにした。

そこが眼科の診療所の場を兼ねもする。

 其方の患者の中でも目の加減が悪い、眼科が必要とあらば紹介を宜しくな。

親バカと言われようとて構わん」

「とんでも御座いません。

 治療の良し悪しの評価は人のする物で御座いますが、

甫仙殿もきっとに成功致しましょう。

 出来る限り、お世話させて頂きます」

 お盆(旧盆)も過ぎれば、あっという間に秋の気配になる。来るときにはあんなにも汗が噴き出したというに、まだ陽が高くもあるに風が通り過ぎれば秋風かと思いもする。

 いい加減、江戸に戻って来い、戻って来ずば今に御家中、江戸番頭等の皆様にも国許の御奉行衆にも言い訳が付かない。甫仙殿を思いながらに玄幹と民治を思った。