二 レザノフの帰国

 じっくりと時間を掛けて(しん)(さい)医範提(いはんてい)(こう)を読みもした、発刊されたとあれば先生にお話しても良かろう。否、むしろ知らせずに置くことこそ礼儀を欠く。

 序文を書きもした伯元殿(杉田伯元)から既に聞きもしていることかもしれない。されど、世間に良くも知られている「解体新書」の訳文を一部替えても居るのだ。吾の一番の門人が苦労して翻訳した物とは言え、吾の口からご報告も必要だと思いもする。

 門を過ぎると、母屋の横に控えるあの蔵書蔵(ぞうしょくら)が目に付く。医範提(いはんてい)(こう)三巻もまたあの中に収納されるだろう。蔵の傍に立つ一本の桜木が今を盛んに咲き誇っている。

「うん。良くに出来ておる。「大腸」、「小腸」の事も伯元から聞きもした。

 翻訳するとても、これからの世に役立つ書にあることが一番に大事な事よ。

 良い、良い。

 それよりも聞きもしたか。其方の仙台藩が事に有ろう。レザノフとか言うオロシヤ人の船。三月も半ばに長崎を出航したそうじゃが・・・」

 相も変わらず早耳だなと思う。吾とて(仙台藩の)医者溜まりで昨日に耳にしたばかりだ。

「はい。御上は通商は出来ない。それが(わが)(くに)祖宗(そそう)(昔からの決まり事)だと伝えたとか。

 光太夫殿(大黒屋光太夫)から聞きもしたオロシヤの将軍、()()とか言う者からの贈り物さえ幕府は拒否したとお聞きして御座います」

(大槻玄沢が後に難破船若宮丸の漂流民からの聞き取り調査に当たる。それを纏め発刊した「環海異聞」ではロシアの皇帝を「王帝」と表記している)

「驚いたの。その御上(幕府)の下知上状を持って正月も半ば(文化二年一月十九日。西暦一八〇五年二月十八日)に(江戸から)長崎に使者に立ったのが、其方も感心しておったあの(昌平坂学問所)学問吟味甲科筆頭で普第(合格)した目付、遠山景(とおやまかげ)(みち)殿だそうじゃ。

 長崎奉行(肥田豊後守)の手から御上の決定を知ったレザノフは激怒したらしい。

 凡そ半年もの間、海の上に居っても(おか)に上がっても待たされて居たのじゃからの。その挙句、通商は出来ぬではかつての(しん)(ぱい)は何のためぞと思うは当たり前じゃ。

 御上の言うは、通商は出来ぬ、オロシヤ(側)が了承するまで献上品ばかりか漂民(漂流民)をも受け取ってはならぬとの決定だったと聞く。

 何時の事か分からぬが、陸に上がったばかりに直ぐにも故郷に帰れると思ったか、それが出来ぬと知って漂民の一人が自殺未遂までしたと聞きもした。

 それも有ってかの、幸いなことにレザノフは漂民を引き渡して帰ったと聞く」

「・・・・」

 感想も何も言い様がない。吾ならず一緒に聞いていた伯元殿だ。

「なんとも嘆かわしい事です。

 越中侯(松平定信)の力が表に出て及べば、幕府の対応が違ったかもしれません。

 御上(幕府)も、世界を知らない者どもの判断と言えましょう。

 蘭学を心得る皆様は開国の世が来る、開国すべきだと申しております。

 御父上ほどには知らずとも何処で如何耳にしたのか、先日にたまたま須原屋(版元)でお会いした司馬様(司馬江漢)も、『幕府の対応は(なげかわ)しい』と憤慨しておりました」

 藩(仙台藩)にあって、無事に引き渡された(文化二年三月十日)と耳にして安堵を覚えもしていたが、今に聞く、交渉事の間、漂民をズーっと物と同じに扱っていたとは腹立たしい限りだ。この先、漂民四人はどうなるのだろう。

今も番町の御薬園の中に在る光太夫殿(大黒屋光太夫)、磯吉殿を思い出しもした。

            三 相撲取りと(とび)(しょく)の喧嘩

 瓦版屋の声を聞く。同時に最近は人集めに鐘を鳴らす。チリンチリンの音は割に遠くまで響くらしい。声を()らしていたよりも瓦版屋も利口になったか。

 手にしたその瓦版に驚きもした。気にもなっていたが行けずに居った芝神明宮境内(けいだい)での勧進相撲だ。何と、その場で大立ち回りが有ったと書きおる。

 二月十六日、水引(・・)と言う相撲取りがヤジに腹が立って、ヤジを飛ばした(とび)(しょく)の者と大喧嘩になった。その騒ぎに、()ツ車(・・)という相撲取りが水引に加勢して騒ぎが一層大きくなった。鳶職の仲間一人が半鐘を打ち鳴らし人集めして騒ぎが更に更に大きくなったとある。

 四ツ車が、鳶職の持ってきた長梯子(ながはしご)を奪い、振り回し、誰も寄り付けられなかった、止められなかった。鳶職の何人かは屋根に上って瓦を投げつけたとある。

 その顛末が、お互いに草臥(くたび)れ、何の(とく)にもならんと、水入り、引き分けたとある。洒落も入った記事だ。

 見てもみたかった一幕(ひとまく)だったなと、驚きながらも最後は瓦版に笑ってしまった。その顛末を見ていた観客こそもう一幕を見て得をしたかと、ニヤリとしてしまった。

(この騒動で、喧嘩の基になった水引(・・)と言う力士よりも()(ぐるま)大八の名が世間に知れ渡り講談や芝居の題材になった。歌舞伎の演目「め組の喧嘩」の中心人物となっている。

 なお、この二代目、四ツ車大八は出羽(でわの)(くに)五十目村下夕町(現代の秋田県五城目町下夕町)の生まれで前頭三枚目が最高位と記録されている。

「四ツ車」は今に伊勢ノ海部屋の由緒あるしこ名である)