六 若者の育成―杉田甫仙
先生が宅の門を潜った。
「今年もあと一月。また年齢を重ねるようになりますが、御変り御座いませんか。
今日は少しばかりの事に御座いますが、
先の改訂版に続き、ご報告させていただこうかと伺わせて頂きました。
やっとに(重訂解体新書の)解剖図等の付録も書き上げた所に御座います。
これで(解体新書の)改訂版(重訂解体新書)の訳稿が一応全て完成したことになります。
図録の多くは先の解体新書の版をお借りしようかと思っても御座いました。
されど、伯元殿と大分に摩滅していると確認してもございますれば、今度に、発刊の時には銅板にしようかと思っても御座います。
また、付録は今に気付くところを記しても御座いますれば今後においおい追加することも御座います。改めてご確認をお願い致します。
先にご確認いただいた(改訂版)訳稿も大枚になって御座いますが・・・」
発刊に係る経費等が問題になることは直ぐに知れる。だが、そのことを大恩ある先生の前で言えるはずもない。持参した物に御目通し下さるよう申し上げるに留めた。
図録を手にして見始めた先生だったが、途中、綴りを閉じた。
「長いこと、世話を掛けたの。良くぞ成し遂げて呉れた」
その一言で、宿題を与えられて凡そ十七、八年にもなるか、これで終わりだな、本当に終わりだなと思うと、肩の荷がどっと下りた気がした。
長い年月と、翻訳に協力してくれた今は亡き明卿(宇田川玄随)に、玄真(安岡、宇田川玄真)や石井殿(石井庄助)等の事が思い出され、思わず涙を覚えた。
(その後、「重訂解体新書」と名付けられ、二十二年も経った文政九年(一八二六年)に文章編十三、図版一冊で発刊された。
その表紙には「天真楼翻刻」「芝蘭堂再鐫」とある。「鐫」の字は「彫る」を意味する。図は大坂に在る中(中屋)伊三郎の手になる銅版画で、「解体新書」よりも鮮明な物になっている。
杉田玄白は既にこの世に無く、大槻玄沢も発刊された翌年、文政十年三月三十日(西暦一八二七年四月二十五日)に没している。
なお、中伊三郎は晩年に京都に戻り、京都の銅版画家と紹介されることが多い。しかし、墓所は大阪市北区東寺町の竜海寺にある。万延元年五月三日、西暦一八六〇年六月二十一日に没している)
後で、伯元共々じっくりと見させて貰うと語り、しばし、蘭学の世、医学医術の今を語る先生のお話を聞くことになった。
先生のおっしゃる通り、今や必要とされる医療は内治(内科)、外治(外科)の大括りではない。これからは一層のこと小児、産科、婦人、耳鼻、眼科等々、分野毎に専門を担う医者が必要とされるは疑いが無い。西洋の医療医術の教えから、飲み薬、膏薬、針、灸、あんまだけではなくなったのだ。
翻訳しながら人体の構造を知れば知るほど、種々の診療も手術も一層必要とされる時代になったなと思う。しばし、先生と吾と伯元殿で江戸の医療事情を語り合ったその後だった。正直、驚いた。
「倅(杉田立卿、甫仙)の先の事を考えての。
蘭語もさることながら、医者の道とて眼科を良くに学ばせておった。
此度、その倅の独立をと藩(小浜藩)に願い出た。まだ未熟者でもあるが故、吾の知行二百二十石の内、五十石を甫仙に譲ると一緒に申し出た。
先日に、藩のお歴々にそのご理解を頂いたところよ、願いをお認め頂いたばかりよ」
立卿殿は先生の後妻、伊與殿との間の御子だ。
「甫仙殿の御年齢は?・・・確か・・・」
「十七(歳)じゃ」
(杉田玄白は文化元年十月六日に藩に申し出て、十一月十九日、西暦一八〇四年十二月二十日に小浜藩の許しが下りたと記録している。なお、『甫仙』の名は杉田家歴代の通称である。玄白の父、杉田玄甫も甫仙を名乗った)
「それは誠におめでとうございます。
先に知れば、何かお祝いの物を持参した処でも御座いますが・・・」
「何を言う。その言葉だけで十分じゃ。
それよりも、今に長崎に行っておる其方の倅殿との間も今後に宜しくな。
若い者同士が切磋琢磨もすれば、助け合う間に有らねばならぬ。
この年齢なれば、若者の育成を考えるも仕事の内じゃ。
近じか、小石川も本郷の方で眼科の看板を掲げてもいる(開業している)東海殿親子(衣関甫軒と、その子息、順庵)に甫仙同道のうえご挨拶に伺わねばと思っても居る」