四 伊能忠敬の測量と地図作り

「いえ、伊能忠敬殿は今は江戸に御座います。

 久しぶりに会いもしたれば、五十九(歳)になったと笑って御座いました。

 大分に白髪(しらが)もお顔の(しわ)も増えて御座いました。

 四年前(寛政十二年)でしたか。蝦夷地、奥州地を測量してその地図を完成したとお聞きしました。

 その功績により享和元年も早々に苗字帯刀を許されもした伊能殿です。

 またその後にも、三浦半島、伊豆半島から海岸沿い等に津軽半島まで実測し、享和二年には出羽、越後。昨年(享和三年)に東海、北陸地方沿岸、佐渡までも測量したと言うのですから、ただただ驚くばかりです。

 その歩き終えた日本の東半分に掛る地図を完成させたとお聞きして、なおのこと驚きました。

 九月六日とお聞きしましたから凡そ一月(ひとつき)前になりましょうか。大版(おおはん)何枚もの地図は江戸城も大広間、(いえ)(なり)公(徳川家斉)等の目の前で繋ぎ合わされ上覧に付されたと景保殿にお聞きしました。

 そこまでは良かったのですが、後に、驚きもし、腹も立ちました。

 伊能殿本人は身分の違いから説明要員にも成れなかったと言うのです。

 吾は御上の言う事とて此度(こたび)もノコノコ大坂から出て来もしましたが、吾が身の事も重ねて思いもしたのです。

 されど、良かったです。それから四、五日して(九月十日)伊能殿に御上(幕府)の小普請組(こふしんくみ)、十人扶持(ふち)に処すると、堀田様から伝達が有ったのだとお聞きしました。

 伊能殿も幕臣として高橋景保殿の傘下で(まこと)に働くことになったのです。

苦労が(むく)われたこと努力が認められたこと、吾の事にあらずとも嬉しくも感動も覚えました。(まこと)に目出度いことに御座います。

知りもしたれば改めて伊能殿に祝辞を述べた所に御座います。

 あの年齢(とし)で、とてもとても吾には歩けぬ、出来ぬと思いもしたところです」

(この時の地図は、一里を三寸六分(縮尺、三万六千分の一)にした大図六九枚、一里を六分(縮尺、二十一万六千分の一)にした中図三枚、一里を三分(縮尺、四十三万二千分の一)にした小図一枚からなる。

 南北の距離を示す子午線(しごせん)一度の長さを伊能忠敬は二十八・二里(約百十・七四キロメートル)と算出し、それが高橋至時の計算とぴたり一致するとお互いに認識したのは享和二年の春である。

 それを基にして造られた右の地図は「日本東半部沿海地図」と名付けられ、天文方の責任者であった幕府若年寄り堀田正敦と高橋景保等の手によって徳川幕府、第十一代将軍・徳川家斉、時の大老、松平越中守(松平定信)等に披露された。

 観覧した面々はその地図の質の高さに驚愕したと伝えられているが、明治新政府に設置された文部省や内務省地理局が明治十年(一八七五年)九月以降、日本全図等を発刊するまで庶民の目に触れることは無かった。

その秘密主義が、後に地図に絡んだシーボルト事件に発展する)

「実を言うと、(よし)(とき)殿の考えは、西国、四国、九州方面は吾に歩測してほしい、実測して呉れとの考えに御座いました。

されど火事の災厄に加えて、情けないかな、伊能殿より若くもある吾が病に勝てず養生せざるを得なかったのです。(間重富が凡そ十歳年下)

 西国(さいごく)の測量調査はこれからに御座いますが、測量事業もまた天文観測同様、御上の管理するところ(直轄事業)となりました。

伊能殿は、これまでも幕府御用の調査隊なのだとそれを知らせる旗を前面に押し出していたそうに御座いますー。

そやけど、何処に行っても難儀したとか。

案内する地元のお役人、村長(むらおさ)さえ、聞いてもなかなかに地名や家数を教えて呉れなかったそやさかい。

藩の情報が幕府や他国に漏れると、警戒してのようにあったと言っておりました。

 今後は、御上の通達が正式にあるゆえ調査もし易くなりましょう」

「成程。吾は伊能殿はじめ調査隊皆々の体調、健康の維持ばかりに気が行っておったが、その様な苦労も御座ったか。

 景保殿は、今幾つ(何歳)に・・・」

「はい。二十歳になりますー。

(景保殿を)一層のこと支えて行かねばと覚悟しても御座いますー。

 されど大槻様の心配が一番で御座いましょう。天文、地理、測量を良く知る伊能殿親子に代わる人材は御座いません。

 伊能殿の命が流行り病にでも奪われもしたらこの国の地図作りが頓挫してしまうと、それはそれは堀田様始め天文方に在る皆々も大いに心配しているところに御座います。

 処で桑原様(二代目桑原隆朝、純明)にお聞きしましたが、大槻様の御子息が仙台から北國、北陸道、山陰周りで長崎に向かったとか・・・」