部屋を開けた六だ。
「来たよ」
少しばかり興奮もしている。
「誰が来た」
態と聞き返す。
「うんとね。うんと・・。小父さん」
まだはっきりと、顔とその名を一致して覚えもしていない。久しぶりに来もすれば仕方がないかとも思う。
吾と(源)四郎と、子供二人だけの膳をこの部屋に用意させた。ニコニコしながらに己の膳の前に座りもした六だ。
六の後に続いた五三は四郎(工藤源四郎)の左手をしっかりと握っていた。
それぞれが席に着くと、手土産だという大振りの包みを五三に渡す。
五三ならず六も大喜びだ。土産にまとわりつく。開けても良いかと聞く五三の言うがままにさせた。
「五三殿には時期が過ぎたれば如何かとも思いましたが、六殿には間に合いましょう」
二つの木箱が現れた。それぞれの箱の表書きに「姫」と、「若武者」とある。
姫達磨と、小ぶりの鯉を右横に床几に腰を置く鎧兜で身を固めた皐月人形だ。
二人は大喜びだ。目にしたお京も一瞬驚いた顔をした。
子煩悩の四郎らしい。一層のこと、早くに己に子が出来たとの報告を聞きたくもなる。
座が静まるのにしばし時間を要した。
「さて、食べるぞ。座るが良い。
初鰹じゃ。
お京、子らに何ぞ飲み物は有るかの?」
しばし、五三と六を交えて膳を囲んだ。時折、四郎が己の箸に挟んだ煮物や鰹の身を六の口にも五三の口にも運ぶ。
お京に姉弟二人の後を頼むのに四半時も過ぎたか。
「これからは吾と四郎小父ちゃんの時じゃ。
お京、小春の言うことを聞きもして寝るが良い」
そう言っても、なかなかに席を立たない六だ。なんと、鰹の目球を箸でいじって、己の目よりも大きい、大きな穴だと言う。
「大きかろう。何故に大きいか分るか。
この魚はの、大きな大きな広い海の中を泳いでいる。
自分の身を守るために目を大きくして周りを見るがゆえに、段々と目も大きくなりもした。
六には分るかの?」
六次郎に分かるはずもない。だが、四郎に向かってコクリと頷く。それからに、若武者人形を片手にお休みなさいと言う。左手はお京の手を握っていた。
五三も大事そうに姫達磨を胸に抱えた。小春が笑いながらに、木箱と風呂敷を手にして後を追いかけた。
昼に何ぞ有ったかと、四郎に聞こうと思ったが止めた。
「今日は飲もう。人の世なれば理不尽なことも否な事もある。
日頃の憂さを忘れるが良い」
「はい」
「困った時はお互い様だ。親子とも思って居るゆえ、遠慮はいらぬ」
「はい」
声にして返事があるは良いか。少しばかり笑顔を見せた。
酒が進む。四郎もいける口だ。男山は濃いか。郷里から届いた浦霞は口当たりが軽い。
白鶴は先生の(杉田玄白)所からの頂き物だ。味は淡麗だ。段々に口にする酒の品評会にもなるは呑兵衛の何時もの事だ。
正に息子と飲んで居る気になる。四郎に昼時に問われもしたことを思い出した。玄幹は何をしている、民治は・・・約束事の一つ、二つを果たしたかと気にもなる。
「この頃、いやに多くも御座いますが、あちこちの寺で秘仏の御開帳が御座いましょう。
何処ぞに、観にも行かれましたか?」
「否。そうと分かっていても、関心もあるがなかなかにの。
ただ、世間は賑やかになったの。
寺社詣でに限らず、様々な読本に浮世絵、芝居小屋が人気とあれば、あの奢侈の禁止は何処に行ったかと思いもする。
米沢の堀内林哲(堀内忠意)がその状(手紙)に、江戸を指して大都会と言ったがの。
江戸の賑わいも、台所大坂の繁盛も、また、優美な京の街があるのも、そして吾らが翻訳の稼業、医者が昔以上に必要とされるは何事も世の中、生活が豊かになったお陰よ。
(凡そ二百五十年も前に、江戸を指して、「大都会」と文面にあるを見て筆者は驚きました)
今年も田畑は良いとの事じゃ。田舎からそのように伝え聞いてもおる。
田畑の物が豊穣であれば嬉しくもあるが、農民の暮らしは何時の世も大変ぞ。
手足を汚さぬ吾らが浮かれすぎ、行き過ぎて、天の怒りに御上のお叱りを受けねば良いがの。
(この文化元年の春。その後に江戸にて「太閤記」の錦絵を描いた喜多川歌麿、歌川豊国が手鎖となり、版元西村屋(西村宗七)は十五貫文の過料の処罰を受けた。
また「太閤記」が元は大坂で発刊された「絵本太閤記」から抜き出して読本にしたものと知れると、「絵本太閤記」そのものが幕府から絶版とされた。文化元年五月十六日(西暦、一八〇四年六月二十三日)の事である)
「はい。真におっしゃる通りに御座います。小父上の「医者は商人にあらず」も、杉田先生(杉田玄白)の形影夜話も、吾等の心に響くものに御座います。
お聞きしましたか。吾もそのうち是非に観に行きたいと思っても御座いますが、浮世絵師百琳宗理が北斎とか名乗り、何と百二十畳もの繋ぎ合わせた大きな和紙に達磨の半身絵図を書いたとか。
護国寺(現、東京都文京区大塚)の観世音菩薩の御開帳(三月)に併せて、その菩薩の傍で書いたそうに御座います。
紙の大きさにも驚きですが、描かれた絵の構図を聞きもして驚きました。
達磨と言えば石壁に向かって洞穴で修業を積む苦行僧を思いもしますが、少しも苦難の修行僧らしからぬとか。
人々を正面から睨み据えた達磨だとお聞きしました。
達磨は世の人々に何を言いたいのでしょう。
親しみを感じる滑稽な顔に在るともお聞きしています」
「・・・・」
四郎こそ何を言いたかったのか。吾が(上屋敷から)下がった後に何ぞあったか。今宵は泊まるが良い。奥方への知らせに末吉を走らせると言いもしたが、帰って行った。
(当時、工藤源四郎は日本橋新数寄屋町(現、東京都中央区八重洲一丁目辺り)に住む)
暑い盛りに届いた状には身体の事ばかり。持病が悪化して腰が痛い、膝が悪いとある。傍に在れば、「まだ若かろう、二十歳だろう、しっかりしろ」と言いたくもなるが、それ故暫く長崎滞在が長くなるとある。
事の真偽は分からぬが、再度、藩に遊学期間の延長を申し出て下されとは・・・。
肝心の翻訳が勉強の事はどうした。医学医術の事は如何にした。
吾が持たせた志筑殿への紹介状は如何した。志筑殿に教えを頂いているのか。それすらも書き寄越さぬとは。
民治の事に触れても無い。民治は元気に有ると想像するしかない。
戻りもしたら、母上の顔が変わっていたと吾の妻取りにこそ余計に驚きもするか。
(官途要録の九月の項に、倅、玄幹の持病の事等を書き記してあるが、話の内容が前後し当時も大槻玄沢は記憶を遡って書いていると推測されるー筆者)
付記:嬉しいことが有りました。小生の知らないところで小生の小説を「世界に発信」とあるのは知っていましたが、それをお読み下さっているアメリカはカリフォルニア在住の女医さんが、今に御主人、娘さんと日本に一時帰国、滞在しているとブログ投稿を通じて連絡が有りました。
産婦人科の先生で、自身のブログに、乳がんその他の女性の病気についてアドバイスを投稿されている方です。アメリカ、カリフォルニア、女医と入力、クリックすれば繋がります。参考にしたい方は、クリックしてみてはいかがでしょうか。家族写真も公開しています。先生、頑張れ。