一 堀田正敦の話
正月(文化元年、西暦一八〇四年二月)早々、その事実を知って驚きもした。
天文方にあった高橋至時殿が病(結核と推測されている)により死亡したと堀田様の嘆きは大きい。
御上(幕府)の暦の事(寛政暦)も天文測量の事も今や堀田様(堀田正敦。幕府若年寄り、下野佐野藩第六代藩主)を抜きにして語れぬ。
「ここは、大坂に在る間殿を呼び戻さねばなるまい。
貴重なラランデの歴書を至時殿に預けもしてまだ半年じゃ。
その翻訳とて途中に有る。其方の力を借りねばの」
医者溜まりに顔を出したばかりに、桑原殿(桑原純明、二代目・桑原隆朝)から「堀田様が御出でになって御座る。大槻殿をお呼びで御座る」との事だったが、堀田様ご自身のお言葉でその理由が分かった。
「至時殿の倅、景保殿はまだ二十歳と聞く。暦局の仕事を引き継ぐほどに成長していまい。
天体観測のことは景保殿、間殿に任せるとしても、
今後の天文研究のために必要とされる蘭語の翻訳には其方の力を借りもしたいのじゃ。
如何かの?」
「勿体無きお言葉。痛み入ります。
吾で良ければ、如何様にもお手伝いさせて頂きます」
「うん。其方は忙しい身に有るのを重々承知のことじゃが、それで決まりじゃな。
先に耳にもしているが、其方は間殿を良くに知りおるとか。
好都合と思っての」
御屋形様や観心院様の御薬、健康保持の事等で何度も拝顔しているが、堀田様からこのようなお話を頂くとは思いもしなかった。
今に大坂に在って活躍している橋本宗吉だ。彼が小石元俊殿、羽間(間)重富殿の推薦を受けて吾の所で学ぶことになった経緯からお聞かせした。
直ぐにも御上(幕府)から呼び出しが有るのかと思っても居たが、その後に堀田様の方から御話が無い。
吾も幕臣に成るかと期待もしていたが、些かガッカリもしている。
(高橋)至時殿は享年四十一歳。上野の源空寺に葬られたとお聞きした。
(源空寺は台東区東上野に今も在る浄土宗のお寺。後年、伊能忠敬が師匠の側に眠りたいと希望し。高橋至時と伊能忠敬のお墓が並んでいる。国の史跡指定となっている。)
なお、同寺には外に谷文晁、幡随院長兵衛、高橋景保等が眠る)
二 大槻玄沢の後妻縁組
「もう、すっかり春ですね。
今頃、長崎に在る玄幹殿、民治殿は如何して御座いましょうか。
(長崎は)この江戸よりも暖かくもあれば、陽も長く御座いましょう。
状(手紙)が届きましたか?
何か知れもしましたか?」
「親の心、子知らずとはこのことよ。何の知らせも寄越さぬ。
音沙汰無しは元気な証拠とも言うが、それにしても・・・・。
二人共こんなに筆不精とは思いもしなかった。
所で其方のお陰での、うん、今日にお許しが出た。
(医者溜まりを)下るに呼ばれもしての、大條監物殿(大條道任。この時の江戸番頭役、仙台藩の奉行の一人)に御言葉を頂いた」
「それはようございました。先月も末に近かったでしょう(三月二十八日)。
今日(四月十八日)にお許しを得たとあれば(結果は)早くも御座いましょう。
小父上の日頃のお勤めぶりを計れば御審議下さるお国許の方々(中村日向景貞、片倉小十郎村典等仙台藩の奉行職、御側用人に在る者)とても御異存は御座いますまい。
五三殿、六殿とて喜びもしましょう。まだ六つと四つ(六歳と四歳)でしょう。
母親が恋しい年齢でも御座います」
「今日は、其方も夕刻に上がりじゃろ(勤番終了)。
先に帰るが、帰りは吾の所で一杯して行く(飲んで帰る)が良い」
医者溜まりで顔を合わせた四郎(工藤源四郎)だ。
普段、当直(夜番)の組み込まれてもいる医者の勤番なれば同僚とてもなかなかに顔を合わせることとて無い。ましてや吾の当直はたまたまのこと。明けの吾(当直の責任当番医)とのすれ違いでもあるが、今日は夕餉を一緒にと誘った。
「はい、有難う御座います。必ずお寄りさせて頂きます」
笑顔を見せる四郎じゃが、まだ子が出来たとの報告がない。
奥方も元気と聞いてもおれば焦る必要もないが、工藤家の跡取りが出来たとの報告も耳にしたくもある。
(文化元年三月二十八日、西暦一八〇四年五月六日、工藤源四郎が己を親族縁者と添え書きして、大槻玄沢の後妻縁組の許可を仙台藩に願い出た。
その結果として四月十八日、西暦一八〇四年五月二十七日、旗本、伊奈熊蔵が家来、牧野伴右衛門の妹と大槻玄沢の縁組が許された。(官途要録第二集)
なお、伊奈家は現在の埼玉県北足立郡伊奈町を所領としていた。代々継いで伊奈熊蔵を名乗り、徳川家康の代からの徳川家臣である。当時の御江戸番町絵図(旗本御番組、武家屋敷一帯図)では伊奈家は裏四番町(現代の千代田区九段北三、四丁目)に在り、牧野伴右衛門は同家の大番頭とも言える立場にあった)