三十 先生の教えー日録
暮(享和三年十二月、西暦一八〇四年一月)に入って、玄幹らの長崎遊学期間を一ヶ年延長して下さるようにと正式に大條監物殿(大條監物道任)、石田豊前守殿(石田豊前守準直)等宛てに申し出た(官途要録)。自費遊学でもあれば、審議下さる御偉方の大きな問題になることも無かろう。
一段落ついたかと、年末の御挨拶にと先生の所に顔を出した。
「今年も色々とあったの・・。一番に思うは、亡くなった蘭花殿(前野良沢)のことかの。
世間は色々と噂するが、彼と吾の生き方に違いがあっただけのことで、お互いに認め合っていたこと、尊敬していたことに嘘八百は無い。
其方の蘭学会(の宴)に共に参加し得たこと、その場で(蘭花殿と)医学の事に限らず、何時の世の事どもも意見を交わせたのは喜ばしきことで有った。
蘭学の隆盛を願って居たは蘭花殿も吾も同じだ。亡くなったと聞いて万感の思いが込み上げての、日録(鷧斎日録)には、彼が死んだとしか、書けなかった。
前に話しもしたが、其方も日録を書きもして居ようかの?その後どうした?
日録はこれから先の事をするにも、振り返って己を戒めるものにもなる。また、何をせねばと考える基にもなる」
「はい。教えの通り、今に天明の世にまで遡り思い出しながら記録して御座います。
記憶違いもあるやもしれませんが、確かにこの先を考える基にもなりもすれば、思い出して赤面するほどに反省せねばと思うことも多く御座います。
間もなくに新年を迎えもしますれば、この暮には遡って書くことにも区切りをつけねばと思いもして御座います」
黙って先生とのやり取りを聞きもしていた伯元殿だった。頷いていたところを見れば伯元殿も日録を書いて居ようか。
歩きながらも、官途要録を書く発端となったお言葉が頭の中に蘇る。
「其方も年齢じゃろ。吾の後見草、鷧斎日録同様、後々のために、家族等のために其方の思いの残る所を書き残して置いたら如何じゃ」
夕餉に妻の居ないは寂しいものだ。用意された御膳を前に五三も六(六次郎)も大人しく食べる。だが、笑顔があって良い、もっと笑いが有って良いと思う。この場を賑やかにする才の無い己が情け無い。五三も六も甘える相手が居ないのだ。
明日にも五三や六の正月に着る物でも誂えようか。お京にも小春にも付き添いを頼んで呉服屋に行かせようかと思いもする。
「お京にも小春にも頼みたいのじゃが、
明日にも越後屋(日本橋駿河町)を覗いての、五三と六の正月用の晴れ着を頼みもして呉れぬか。
(注文するのが)少し遅いかと思いもするが、頼んでもみよ。
お京も小春もあたかも親になったが如く、五三と六の晴れ着を選んで呉れぬか。
銭の方の心配は要らぬ。」
「それは嬉しいことにも御座います。
はい。五三様も六様も良かったですね」
お京の先だった言葉に五三も六も一瞬戸惑ったような顔をしたが、意味が分かったとて嬉しいとピョンピョンと跳ねる五三だ。
良くに(意味が)分かりもしないのだろうが、六は姉のそれを見て跳ねもする。
子の嬉しさを表す仕草に満足を覚える。
純、これで良かったかの、亡き妻に心の中で問いもした。
「皆、先に休むが良い」
少しばかり、満足を覚えて部屋に向かった。部屋を暖めて御座いますと。末吉の言葉が後ろからだ。
振り返りもせず、頭で頷いて感謝を知らせた。末吉も来年には四十八(歳)かと、吾と同じ彼の年齢を思った。
文机を前に、官途要録だ。先ずは本藩移籍(一関藩から仙台藩)の始末記と、これまでに藩に申し出た願い事等について書き記すと決めても居たが。読み返せば、実にあちこちに話が飛んでいる。
乱筆でもある。だが、今更これを書き直すなどとても出来ない。天明六年より享和三年まで以上十八年と記し、これで過ぎし日の事どもは終わりとしよう。
(大槻玄沢の「官途要録」は第四集まで編纂され現代に残されている。その第一集の表紙には「従一関御貰受本藩二新召出始末並二以来諸願諧達留牒」と記されている。
読みは、一関藩より本藩(仙台藩)に貰い受けの話あり、新たに召し出されし始末、並びに以来、諸願諧達(願い出て叶いし事どもを)留牒(記録しておく)、である。
また、その末尾に、「自天明六年丙午至享和三年癸亥十八年」とある。(天明六年丙午の年より享和三年癸亥の年まで以上十八年、である)
なお、参考図は早稲田大学図書館所蔵の、「官途要録」第一集の表紙の写である)
付記:次回から、第二十三章 文化元年に入ります。

