二十九 前野良沢の死
木枯らしか。青空が広がってもいるのに北風が寒い。中庭の桜木も途端に紅葉した葉を落としている。
先生や伯元殿とこの暮の蘭学会(の宴)の有り様を話してきたばかりだが、此度も先生の地獄耳に驚かされた。
長崎(港)に和蘭のレベッカとか言う船が入港した(享和三年七月八日、(西暦一八〇三年八月十二日。和蘭の雇った米国船)と言うには驚きもしない。
だが、九月(九月八日。西暦一八〇三年十月二十三日)に英国船、ベンガン号が入港して、水、食料等を求めた、通商を求めたとの語りには先生ならずも鎖国日本が風雲急を告げていると思う。
世界の中心が和蘭から英吉利、仏蘭西になったという先生のお言葉は間違いなかろう。カピタンが江戸表に持参する貢物が、来るたびに減っているとの噂は真のようだ。
「旦那様、神田からの使いの者だと言う方が来ております。
(先生が)不在であると告げ、寒いのでお上がりになってお待ちするようにと言いもしましたが・・・」
仕事の邪魔をされては困る。不在と言うが良い。吾の指示したことに従順に従った応対だが、お京の気遣いだった。
頷きながら、肩をすぼめて玄関口に回った。
「確かに、大槻様に御座いますか。
神田も市橋、小島春庵様からの使いに御座います。
朝方に前野良沢様がお亡くなりになったとの言伝に御座います」
使いの物の上から下までをまじまじと見た。今、何と言った。
使者はペコリと頭を下げる。
「確かにお伝えしました」
次を問う間もなく、踵を返して走り去る。尻端折の後ろ姿を見送った。
「如何かなさいましたか?」
立ち尽くす吾に、一旦奥に行きもしたお京が戻って来て後ろから声を掛けた。
「喪服を用意しろ。良沢先生が亡くなった。
(神田も)市橋の小島殿が宅に行く」
(神田市橋は神田御門の跡に有った橋。前野良沢自身が弟子、江馬蘭斎に送った年始状に、「私儀当二月(享和三年二月)初旬は神田小島俊庵方へ同居仕」、「右居所は神田にて市橋下総守様(が屋敷の)西隣」と書いている。
右の江馬蘭斎の項は「前野蘭花2―解体新書の研究。岩崎克己著、片桐一男解説、東洋文庫、平凡社版にお借りしている」)
お年齢が年齢だけにそのようなことが有っても仕方がない。だが・・・。
この凡そ二十余年。亡くなりもした建部先生(建部清庵由正)、工藤様(工藤平助)、良沢先生無くして今の吾は無い。急ぐ足に胸の鼓動が拍車をかける。
(前野良沢、享年、八十一歳。享和三年十月十七日、西暦一八〇三年十一月三十日没。
杉田玄白の「鷧斎日録」の同月同日の条に、「雨雲 近所・駿河臺病用、前野良澤死」と記されている。この記録から杉田玄白の薄情なことを指摘される方もあるがこの前後の日録もほぼ同様の書き方である。
大槻玄沢の配慮が有ったとしても、御二人が玄白の還暦祝いと良沢の古希祝いの席に同席し、また、その後の蘭学会の宴にも同席しており、必ずしも杉田玄白が薄情だったと指摘できないのではないか。
解体新書出版、発刊の後の事は、それぞれの生き方の相違であると筆者は理解している)
蘭学会の宴は第一に蘭花先生のご冥福を祈る黙とうから始めた。その所為か何時もの年の賑やかさは無かったものの、ご参加下された皆々様がこの年ほど日本を巡る国防を語った年は無かったろう。
吾とて良沢先生や工藤様を思いながら、蝦夷地実地探索に挑んだ最上徳内殿、開国兵団を著した藩(同じ仙台藩)の林子平殿、良庵殿や良沢先生と親しかった勤王の志士、高山彦九郎殿、諸国(藩)を見もして来た蒲生新平殿等を思い出しながらに話しの輪の中に加わり、意見を述べもした。
伊能殿(伊能忠敬)や至時殿(高橋至時)の測量、今に進められている日本地図の出来は如何にと、先読みしたことすらも話題になった。
今の世の課題等を話し合えるは正に良い。実にいい会になったと思う。