二十八 玄幹の便りに思う
悲しみが有ろうとなかろうと季節は巡る。玄幹からの状(手紙)には、いよいよに長門下関から九州も豊前小倉に至ったとある。
吾はそこから筑前(現、福岡県)に至り、長崎街道も途中から筑後川沿いに出て大村湾を諫早という所に船で渡った。ムツゴロウと言う面白い魚の滑稽な動きを今も覚えている。
諫早から日見の峠を越えて長崎に至ったが、玄幹と民治は最初から日向、大隅、薩摩、肥後熊本を経て長崎に至る予定だ。
何処の街道、宿場の関所を通るとて今の世に通行手形を手配するは容易な事では無い、特に薩摩を通るに二人の領地入りをそもそも許すものか。人の出入りを厳しく規制しているのが薩摩(藩)だ。
知ってか知らずか二人からその計画を聞いた時、吾は堀田様(堀田正敦)に相談させて頂いた。
民治には学術調査のために大隅半島を周遊する必要があるとでも理屈をつけて尾藤殿(尾藤二洲)からでも学頭(林述斎)からでも薩摩藩に宛てた書付を手に入れろと指示した。
それらが何とか薩摩領に入れる手立てだ。
二人の九州入りは西洋の医学医術、蘭学を学ばんがための道行であることに間違いはない。だが、何故に薩摩を回って態々に遠回りして長崎に行くのかと堀田様ご自身、島津侯に問われもしたろう。日頃の堀田様と島津侯の仲が如何にあるのか知りもしない。交渉事の多くを語らず手配をしてくれた堀田様に今も感謝の念が湧く。
この書付は特別な物ぞ、薩摩の領地通行の許しはこの書面に有ると苦言を呈して玄幹に渡したものの、堀田様の苦労、親の心を子知らずか。
世話をして下さった堀田様に後々ご迷惑を掛けられぬ。万が一を考えれば官途要録にも記し置くまい。
(大槻清準(大槻民治、平泉)は後に大槻玄沢等の推薦もあって仙台藩のお抱えとなる。
その際に民治が藩に提出した「儒学家業伝統来由書上」(現代の履歴書相当)には、「林学頭殿から薩州御家老迄被仰入候に付き、薩州御領内は処に寄り酒肴の接待を受け、また薩摩滞在中は毎日案内の者が付き、数日滞留仕候」と記載されている。
なお、同書上は早稲田大学図書館所蔵で見ることが出来る)
それよりも、今に九州入りは当初の予定から大分に送れても居よう。玄幹が北陸道で身体の養生に要した時が大きかったか。
疲れが出て養生が必要であったか、麻疹のために療養に時が懸かったか、今に思えばその真偽は関係が無い。遊学期間一年、当初に予定した長崎滞在一ヶ年には足りなかろう。二人の長崎遊学期間の延長を藩に申し出ねばなるまい。