二十五 玄幹の便り

 再び仙台に戻り、出羽国に至った、酒田に到着した、そして、明日にいよいよ越後に行く、北陸道に入るとの便りだ。これを手にするうちにも越後(新潟)にも至っていようか。

 浜街道も水戸領内は何処を見て下ったのか、仙台に寄ったことも、一関に何時まで在ったのかも、また、戻って仙台から酒田に出るにも何処を如何通ったと一言も触れず、いきなり酒田に到着した、口にする海の物(幸)は美味いと書いて寄越す。心配する親の心、子知らずとはこのことか。

 仙台から脇街道(奥州街道から出羽国に至る分岐点の吉岡宿から奥羽山脈越えで舟形宿、酒田湊を結ぶ)を通って酒田に行ったのだろうと思いもするが、一関は父の生まれたところぞ、育ったところぞ。せめて、田舎で喜んで迎えてくれたであろう大槻家皆々様の近況を状(手紙)に(したた)めて知らして呉れてもよさそうなものだ。

 頼みもした御父上のお墓(一関、曹洞宗、曹源山瑞川寺(そうげんざんずいせんじ))も、大槻家御先祖様のお墓(一関、曹洞宗、里中山龍沢寺(りちゅうざんりゅうたくじ))参りとてしたのか。声にして確認も文句も言いたくもなる。

(瑞川寺)

(龍沢寺)

 

 周(まわ)りはすっかり春だ。皐月なれば目にする青葉にも温かい陽射しにも春だなと実感しながらに上屋敷に顔を出した。北陸道をどこまで進んだかと(玄幹等を)思わない日はない。

 何時もの通り観心院様の脈を取り体調をお聞きするも、特に気にするようなこともない。むしろ、(江戸)市中に一層流行りの麻疹はしか)を、吾も同僚等もこの御屋敷内に持ち込まないようにするのが最も肝要だ。

 ぶつぶつの発疹(ほっしん)が麻の実に似ているとてこの名に有るが、感染力の強い、時に死にも至る危険な病だ。

吾等とて、手洗い、うがいの励行に、患者を診るにも覆面をすることも重要だが、それと分かれば患者を隔離するしか手の施しようがないのだ。

「いやー、居た、居た。大槻殿が居たれば心強い。

 大変なことになっておる。お耳に達して御座るかの?、

 麻疹(はしか)はこの江戸だけでなく、諸国に蔓延しているようじゃ。

 堀田様からお呼び出しがかかっての、今、戻って来たところよ。

 東海北陸の測量を目的として出立した伊能殿(伊能忠敬)が隊(享和三年二月二十五日、西暦一八〇三年四月十六日出立)は、

沼津から海岸沿い(御前崎、御罪半島、知多半島等)を回って名古屋城下に入り、一休みして予定通りに北陸道の測量に入ったのだそうだ。

 ところがだ。北陸道に至って隊員皆が麻疹を患って寝込んでいるそうじゃ。

第二報に、死人も出たとの報じゃ。急を知らせる早飛脚に堀田様もお顔を真っ青にして居る。

 測量は今やお国の一大事業。その責任者でもある堀田様ゆえ麻疹の対処方法を聞かれもしたが・・・、大槻殿は、何ぞ良く効く薬、処方の方法を御存知か?」

 医者の身にありながら、堀田様と測量のことを話すことの多くなった桑原殿(二代目、桑原(くわはら)(たか) (とも)純明(すみあき))だ。

医者が医者に問われても、教える(すべ)とてないのが麻疹(はしか)だ。抵抗力を増さんがために普段から滋養を付ける。(かか)れば、高熱をただ、ただ、冷ます、それしかないのだ。

 むしろ、伊能殿の隊が何処に在って立ち往生しているのか難儀な状況にあるのか、それが気になる。

「熱冷ましと言えば、「()(りゅう)」ですかね」

 己で答えを口にする桑原殿だ。吾よりも漢方を良くに知るお方だ。堀田様にもそのようなことを話してきたかと察しがつく。

玄幹と民治が今に何処に在るのか、便りを寄越せ、如何(どう)あるのか近況を知らせよと、むしろ脇の下から汗が噴き出るのを覚えた。

(「地竜」は。現代においても漢方(かんぽう)生薬(しょうやく)で推奨される解熱剤である。ミミズの内臓を除去し乾燥させて粉にしたもの。三十八度以上の高熱に効果を発揮するとされている)

 

 遠く江戸にあれば余計に心配もする。すぐにも駆けつけたいと思いもした。凡そこの一カ月、吾とてじりじりと穏やかならぬ日々だった。此度は慣れぬ旅で疲労が重なったのであろう。風邪でも熱は出る。麻疹(はしか)に罹ったとあるがそれが確かな事か定かではない。疲れも取れた、立ち直ったとの玄幹からの加賀(石川県金沢)から便りにほっとする。

 それにしても、何処を通って何時に加賀に到着したのか、幾日床に臥せたのか、民治は如何していたのか、はたまた、吾の書き渡した人名簿の誰に何時に会うことが出来たのか、お世話になったのか。

 何時に加賀を発つ予定にあるのか、若狭(越前若狭)に行くのか、近江を経て何時に京都に到着する予定なのか、またまた日付も詳細も記されていない。

 僅かばかりでも版元から資金援助があって(長崎)遊学を果たした吾と、(玄幹の)自費遊学との違いか。

 必ず日付を書き置くこと、何処での事か記すこと、実際に見た物聞いた事は書き控えること、珍しい物、体験は特に大事になされ、必ず紙に書き記しておくこと。戻ったら話し合いましょう、の須原屋(版元)の忠告と言うのか、注文を今に思い出す。

 同じように版元から先に資金援助を得て長崎など西国を漫遊し、その後に発刊もした司馬殿のことも思い出した。

(司馬江漢、西遊旅譚(さいゆうりょたん)を寛政六年五月に発刊))