二十四 純と語る
文机の上の紙は白いままだ。泊る所が決まったか、夕餉を済ませたか、風呂は使えたかと玄幹、民治の今日に思いが行く。
「お茶を淹れ替えましょうか?」
「ハハハハハ、丁度良いところに来た。
なかなかに翻訳の手が進まねばと要録の方の書き足しに切り替えてみたものの、それとて先に進まぬ。こういう日もある。
暫く、話し相手になるが良い」
「それは嬉しゅう御座います。
要録の方は、今はどの辺りに・・・・」
「うん、やっとに寛政十年よ。追い付くまでにまだ五、六年もある。
十年と言えば・・・、星野良悦殿、あの身幹儀、覚えているか?」
「はい。人の身体はこのように出来ているのかと今もはっきりと覚えて御座います。
この屋敷で開いた観覧の日に人の波が途切れなかったこと、木骨を見た人の驚嘆する声、ざわめきを今も覚えて御座います。
そういえば、医学館と(天真)楼の方に木骨が収められるとお聞きしていましたが、その後どの様に・・」
「法眼殿の望みは吾の望みでもあった。
それゆえあの時、(寛政)十一年も正月だった。(仙台藩)上屋敷に来て居られた堀田様(堀田正敦)に新年のご挨拶方々、身幹儀が医学館に有れば洋の医学医術の発展にも漢方の医学医術にも一層役立ちますと進言した。
堀田様の御耳に届けば、自ずとそれが越中侯(松平定信)にも伝わるでの。
直ぐに広島藩主(第七代、浅野重晟)に、もう一つ作って献上せよと御上(幕府)の命が下った。
だが藩(広島藩)を経て医学館に身幹儀が納まったは(寛政)十二年も暮の事よ(この時、広島藩主は第八代、浅野斉賢に替わっている)
なかなかに納められなかった理由が後々、広島藩に籍を置く香月殿(香月文禮)の話から分かりもした。
実際に木骨を造る指物師の原田孝次殿が凡そ二年もの間、寝たり起きたりの病に有ったのじゃ。
床上げしてそれからに造り出し、出来た身幹儀はまさに原田殿が心血を注いだ作よ」
「天真楼の方にも納められましたか」
「いや、その一体を作り終えてほっとしたのか、原田殿は日を置かずしてお亡くなりになったと聞いた」
「えっ、(天真)楼へは・・・?」
「享年五十五歳と聞きおる。作り手が他界してはの。
楼が木骨を手にすることは出来なくなった。先生も伯元殿も吾も、残念至極よ。
そればかりか、幕府に身幹儀を納めて大役を果たしたとほっとしたのか、星野殿も去年(享和二年)の三月(三月一日)に亡くなった。(享年)四十九歳と聞く。
六月に御上から褒賞金が三十両、出たと聞くが、その時にはお二方はこの世の人では無かった」
「・・・・」
「話題を替えよう。
今日は玄幹の晴れの旅立ちの日じゃ。
奴の人生、お役目は、この先、如何あるのかの。
大いに学んで、己の生き方を探し当てて欲しいものぞ」
そう言いながらに、大坂で客死した陽助の事を思うは己の心の反省か。
行徳で今に何をしているのか、民治と酒でも口にしているのか。明日に備えてもう床に就いたか。吾と吉甫(杉田伯元)の江戸上りの時よりも気になる。