帰京して悩みました。取材旅行の第一の目的としていた「仙台藩医、桑原隆朝」に掛かる系図をどのように理解し執筆に当たるか、小生のこれまでの「小説、大槻玄沢抄」も加筆修正が必要か、
己の不勉強を反省しながら、改めて文献調査に当たったところです。先人諸氏の書き残した物(特に日本歴史学会編集、吉川弘文館刊の「只野真葛」(関 民子著)に登載されている只野真葛関係略系図)を大いに参考にさせて頂いておりますが、
「仙台人名大辞典」(仙台郷土研究会編)は桑原隆朝系図を
桑原隆朝如璋 ―養純純明(隆朝) ―養純如弘 としております。
上記、関 民子 氏著の只野真葛関係略系図では、
桑原隆朝如璋 ―隆朝純 ――隆朝如則 ―如弘 と有ります。
しかも、――如則の兄妹に「信」、伊能忠敬の後妻。
――如弘の兄弟に管治(工藤家養子)と有ります。
文化四年に、工藤源四郎(工藤平助の次男)が急逝します。その跡取り問題に小生の頭の中がごちゃごちゃで整理しようと宮城県図書館に出かけたのですが、執筆の方向を決めました。
結論から行くと、従前どおり日本歴史学会編集、吉川弘文館刊の「只野真葛」(関 民子著)を参考に執筆を続けます。が「隆朝純」を「隆朝純明」とします。
理由は、人名を呼ぶに辰さん、熊さんなど一字で略表現することが多くありますけれども、当時、人名を表現する(書く)に一字を以ってするは少ないと判断するからです。辰さんは辰吉、熊さんは熊五郎かも知れないのです。
また、調査していて余録で知った他のことも有りました。文化13年(西暦1816年)に故人・工藤平助著の「救瘟袖暦」が発刊されます。文中、その本を刻したは工藤家の養子になった管治(工藤周庵(静卿))との体裁をとっています。しかし、管治はこの時まだ幼少(10歳前後)で、刻した実際は周庵の実父、桑原隆朝如則(桑原士愨)です。またその序を大槻玄沢が書いていると調べは付いていたのですが、その序文にかかる後の世の人の幾つかの解説に小生は納得できません。
「大槻玄沢はその『序』の中で、かすかに亡き親友に逢う思いがして涙が流れて止まらないと記している」と解説している物が有ります。何処にそんなことを書いてあると言うのでしょうか。
改めて、その「救瘟袖暦序」を早稲田大学図書館所蔵の古典籍総合データーベース等で見ると「故晩切翁可筆 救瘟袖暦・・・」とあります。序の文面は一貫して工藤平助の事を「翁」と尊敬の念を以って書き現わしているに、何故「親友」なのでしょうか。
田舎一関から出て来た青年(大槻玄沢)の二度にわたる江戸遊学期間の延長、一関藩から仙台藩への移籍、長崎遊学の便宜等々、玄沢のために骨を折った工藤平助なのです。
工藤平助のことも大槻玄沢のことも良くに知らない人の解説なのでしょうけれども愕然としました。工藤平助は大槻玄沢より23歳年上でもあります。
小説・大槻玄沢抄をお読み下さっている皆様にお詫びします。小生が既に投稿した、次のページにかかる「桑原隆朝」について加筆修正させて頂きました。
第二十章 お役目・6(2025年7月8日投稿)
・・・松前に向かったと桑原殿(仙台藩医、桑原純明、二代目・桑原隆朝、蔵米取り四百俵(高四百石)、工藤平助の妻、遊の兄)だ。
第二十一章 情報・1(2025年7月9日投稿)
・・・近く寄って来た桑原殿(桑原純明、二代目・桑原隆朝)だ。
第二十二章 享和年間・19(2025年9月1日投稿)
・・・声からして桑原殿(桑原純明、二代目・桑原隆朝)だと直ぐに分る。
振り返ればその後に桑原如則殿(後の三代目・桑原隆朝)、四郎(工藤源四郎。故・工藤平助の次男)の顔が見えた。
重ねてお詫び申し上げます。
