「観心院様への土産(品)じゃ。
吾の仙台藩への移籍や長崎遊学を理解し許されたは第七代(仙台)御屋形様、伊達重村公なれど、その助言をしたはお側にあった御正室、観心院様、年子姫じゃ。
(吾が)御近習衆の藩医に上げられ、姫方を診るようになって良く知りもした。
一、二年もすれば院様は還暦を迎える。その折に、感謝の意を込めて(吾から)お祝いの品を差し上げたいと思っての。
院様は唐の詩文の書や絵図、洋の書、絵図を殊の外好み収集して居る。
それ故、書画でこれはと思う物を長崎で選び、買ってきて欲しいのじゃ。
漢学、国学に素養のある其方でもあれば、品の選択は其方に任せる。
ハハハ、玄幹には無理と言う物じゃ。
三つ目は吾が弟の事よ。覚えておるか、弟、陽助じゃが・・・」
「お顔はうろ覚えですが、名は・・・、はい、覚えて御座います。
この江戸に上った時に大坂の方に修行に行っているとかで、吾が覚えているは田舎に居った頃のお顔で御座いますが・・・。
それが・・、後にあの大坂で客死したとお聞かせ頂きました」
「うん。それでの。長崎からの帰りになろう。四国に寄るとなればその後になるかの?
大坂も小橋町という所の伝光院とか言う寺に陽助が眠っておる。
頼みたいのはその陽助の墓参りじゃ。
死を知ってから十数年にもなる。だが、お勤めに翻訳・執筆に多忙とて、また、遠くもある大坂とて墓参り一つしておらぬ。(吾は)ずーっと気にして来たところじゃ。
吾に代わって玄幹と一緒に、お線香と花の一つも供えて来てくれぬか」
「分かりました。お忙しい叔父上なればご最もな事に御座います。
して、その墓を知る手だては?」
「うん。大坂も道修町の小西商店という薬種問屋、店を訪ねるが良い。
その人名帳にも記してある。
法名は、忍良信士じゃ。墓石に千葉良助と刻んだとも聞いておる。
忘れぬようにと、それを記して玄幹にも持たせもしたがの。
宜しく頼む」
「はい」
「頼みごとばかり言いもしたが、一関は実家(民治の生家でもある)の皆様に宜しくな。
長崎へは長旅ぞ。麻疹が流行っておるゆえ道中無理をせず、身体を大事にして(先に)進むが良い。
玄幹を宜しく頼む」
「はい。仙台は志村様(志村東嶼)等に沙汰無しのお詫びに近況報告だけにして、早々に一関に帰ります。
玄幹も田舎を出た時は三歳。十四、五年ぶりの実家帰りになりましょう。
皆々が驚きも喜びもしましょう。
それを思うだけで吾も嬉しくも楽しくも御座います。
(実家で)ゆっくり休んで、三月も半ばか末に一関を発つつもりでいます。
何しろ、出羽路、北陸道を行くのですから、雪解けの頃合いを見図る必要が御座いましょう」
民治の最後の言葉に、決して身体の強くない玄幹を重ねて余計に心配にもなる。だが、旅立てば後は二人だけの道中だ。心配しても切りがない。
見慣れた上屋敷が、見えもしてきた。
(家に)戻りもしたら、今日の日付(享和三年一月十七日。陽暦一八〇三年二月八日)を官途要録に控え置かずばなるまい。
其方も吾の日録(鷧斎日録)同様に日々の記録を残すが良い、との先生のお言葉から遡り書き出した(官途)要録なれど、この暮れ(師走)までには書き記すことも今の世に追い付かねば・・・。