[8月24日(日)。何時もの通り午前7時半に朝食。この時に女性の宿泊者も居たことを初めて知りました。どう見ても6,70代の方、お一人です。それにも驚きました。
バスで仙台駅に出てJR仙石線に乗りました。本塩竃駅で降りて、世界一周を体験して来た漂流民四人のうちの二人、津太夫、左平の出身地、寒風沢島に渡ろう、松林寺にお墓参をしようと考えていたのですが、塩釜港から島まで片道40分、滞在時間と戻りの船の時刻を照らし合わせて思案投げ首になってしまいました。
路線情報を見ながらきちっと計画を立てていなかったボロが出ました。塩釜神社にも近いのですが、以前にも何度か訪ねているので今回はパス。結局、本塩竃駅近くに在った喫茶店で一休み。
喫茶店の店主の、室浜までは松島海岸駅からバスが出ているとの情報で同駅に回ることにしました。
宿を早く出たのに海岸駅到着は午前10時15分を過ぎていました。駅前で探し回りましたがバス停そのものが見当たりません。目の前で降りた乗客の後にタクシーの運転手さんに聞けば、室浜に行くバス路線は数年前に廃止されているとのことでした。
何故に行くのかと聞かれ、目的地は室浜の観音寺、自分の書いている小説の参考にしたいと正直に答えました。運転手さんは室浜は私の出身地、観音寺は私の母の眠るお寺だと語ります。調子の良い話かなとも思いましたが、咄嗟にタクシー利用を考えました。幾ら掛かると運賃を聞けば片道6、7000円との事です。年金生活者であり取材旅行にも節約をと考えていた小生でしたが、仙台での宿泊費が想定外に大分浮きました。
タクシーの客になりました。乗ってから、「観音寺で待つ時間は運賃の内から外します、ゆっくり境内を見て下さい」との言葉を頂きました。20~25分は走ったでしょう。観音寺の山門をくぐると、すぐ左に大きな戦没者の慰霊碑があり、その右横手前に漂流した太十郎と儀平の墓碑が有りました。二つのお墓の間には「日本最初の世界一周者の墓碑」と有ります。
合掌していると、不意に後ろから声を掛けられました。「この墓は元々はもっと浜近くに在った、東日本大震災に被災しこの寺に墓を持ってきた。儀平さんのお墓が無くて前住職が憐れみ、この墓石を建てた」と語ります。また、浜近くに「儀兵衛・多十郎記念碑の丘」があるとの事でした。「折角に来たのだから、運転手さん、是非案内して」と言います。
車を走らせながら、今の女性は何方かと問えば、今のご住職の奥様だと解説して呉れました。記念碑の丘は、観音寺から3分とかからないところにありました。入口から約100メートルほど上ります。訪れる人も余り居ないのでしょう。坂道は雑草や木の枝に覆われていましたが田舎育ちの小生です。雑木の小枝を折って胸の前でくるくる回し、目の前の蜘蛛の巣を払いながら上りました。丘のてっぺんには「儀兵衛・太十郎世界周航図」という石碑が有りました。日本・長崎に到着するまでのロシヤの親日使節・レザノフと漂流民四人が巡った行路を示す世界地図です。記念に写真を撮り、そこから眺める太平洋は青々とした海原でしたが、照りつける太陽ににキラキラ光ってもいました。
帰り道、運転手さんに寒風沢島に行けなかったというと、戻ったら松島湾遊覧船を乗ればその島を見ることが出来る、今の時刻なら12時30分発に乗れる、遊覧に50分かかるとの事でした。それで乗船すること決定です。 その後に、聞かずも運転しながら室浜の今の現状を語る運転手さんでした。東日本大震災がため室浜の住人は半分に減った。戻ってこない。海で穫れる魚も変わった、仕事が無い、故郷が廃れていくのは寂しいと言います。小生は日本赤十字社に在籍していて震災時に陸前高田市に支援に入ったことを思い出しました。被災後の家屋の礎石だけが残った街、竹藪の15メートルもてっぺんで風に揺れる幾つものビニール袋、消えた松原に一本だけ残った松の木。そして、三日前まで居た過疎化の進む故郷の町をも思い出しました。何か、国の政策が間違っているのではないか、今も発生している被災地への対策や過疎化対策がこれで良いのかと、己の無力と、やり場のない憤りを感じました。
松島湾遊覧船は、50分、1000円でした。右に見える大きな島は寒風沢島ですのアナウンスに思わず立ち上がり、島を見ながら心の中で合掌しました。
波止場から修学旅行で見学した五大堂が目の前に見えましたけども今回はスルー。歩きだして国宝瑞巌寺入り口を知らせる大きな石碑も建っていましたが、その寺もまたスルーです。子供が夏休み、日曜日のためか何処もかしこも人、人、観光客で一杯です。タクシーの運転手さんが毎日こうですよと言っていた通りです。駅への途中、良い匂いを漂わせていた焼き牡蠣を食べ、駅の軒先に出店していた店で「おにぎり弁当」を買いました。
駅構内の売店、休憩箇所で遅い昼食を摂っていると、急に、実に急に目の前が真っ暗です。慌てて走り出す観光客です。大粒の雨が3分続いたでしょうか。周りは駆け込んできた観光客でごった返しました。弁当箱を閉じて表を見ているだけでしたが、漂流民四人の今もの涙かなと思いました。
漂流民四人は、13年振りの故郷に全員が喜んで迎えられた分けでは無かったのです。小生の小説にどのように書こうか、加筆修正しようかと思いながらおにぎりを口にしていたのでしたが、その悲劇と目の前の大雨がダブって思えたのでした。
小生は、宮城県図書館で入手した「石巻若宮丸漂流民の会」編著の「世界一周した漂流民」の一部の写しを移動する電車の中で読んでいました。その写しの中に、観音寺の前のご住職、渡辺照悟さんの文面があるのです。観音寺で初めてお会いした奥様が、「儀平さんのお墓が無くて前住職が憐れみ、この墓石を建てた」と語られた前住職が「渡辺照悟さん」です。
一部割愛、勝手に補足しますけれども、ここに写しの中に見られるご住職・照悟さんの文面の一節を紹介します、「墓碑の無い儀兵衛は(寺の)過去帳で(に)『長流来見信士 儀平』・・・とある。儀兵衛は遭難した時、すでに室浜の近くの家に婿入りし(てい)た。儀平は室浜に帰って、すぐに婿入り先に行った。しかしそこの横(しかし、妻の横)には別の男性が座って居た。儀平は家に入れず、涙ながらに12年間(13年間)の時間を噛みしめ、実家に帰ったのではないだろうか。
渡辺照悟さんが建立した儀平の墓碑には、「若宮丸遭難後二百年 無知信士墓 為供養建立 平成五年 癸酉年 観音寺二十三世照悟」とあります。
(大槻玄沢著の「環海異聞」(早稲田大学図書館所蔵本)には、儀平、太十郎、津太夫、左平と表記されています)
腕時計は午後三時を回っています。石巻行きの電車時刻を見ました。宮城第一交通(株)の運転手さん、有難う御座いました。







