二十 訂正増訳采覧異言の序文
後に、御屋形様、観心院様を上座にして堀田様に呼び出された。
「先にご祝辞を頂きもしましたが、改めて新年のご挨拶を申し上げます」
「おホホホホ、そう、畏まらずも良い。
其方に暮に頂いた薬を飲んでも居ますれば、このように元気に新年を迎えられたと言うものじゃ」
御側で堀田様が笑みを見せながら吾に聞く。
「耳にしたれば、御屋形様用にもその薬を調合できるものか如何かと思いもしての。
(御屋形様に)万が一の事が有ってはならぬ」
「はい。麻疹は命に関わる病でも御座いますれば、先ずはその病を持ち込んではならぬと暮に大條様((大條監物)からこの上屋敷に出入りする者、皆々様に下知して頂いたところに御座います。
併せて、観心院様にその病の予防を兼ねて滋養強壮の薬は差上げた所に御座いますれば、改めて御屋形様にも調合致しましょう」
どれ程に理解をされたか、御屋形様が首を縦にするのを確認した。平身低頭した。
それで肝心の要件は堀田様も納得もしたのだろう。
「話は、変わるがの、其方の嫡子が家業の習得がために長崎に行くと聞きもした。
(仙台)藩にとっても良きことぞ。
それでの、何ぞ困りごとが有ったら後にも良い、申し出るが良い」
「勿体なくも有難きお言葉に御座います」
「ハハハ、今や世にも聞く杉田玄白、大槻玄沢の名じゃ。この(仙台)藩の誇りでもある。遠慮はいらぬ」
「全くもって、忝う御座います」
丁重に御礼を申し上げた。妻(純)にも当の玄幹にも内緒にしていた長崎遊学のお許しの願いを、正月早々やっとに話すことが出来る。
嬉しく思いながらに家の小門を潜った。
「お帰りなさいませ。山村様(山村昌永、山村才助)がお見えで御座います」
純の言葉に意外な気がした。土浦藩でも今日に一堂に会して新年の挨拶が有ったろうにと思いながら座敷に顔を出した。
「明けましておめでとうございます」
「うん。それは良いが、(其方の)藩の方は・・・」
「はい。何、お偉い方々の新年の祝辞、ご挨拶の後は決まって酒盛りで御座います。
特に用事もなければ、早々に退散してまいりました。
先生とて、そうで御座いましょう?」
「うん。何か急ぎの用事でも有ったかの・・」
「いえ、御座いません」
ニコリとして、さらっと言う。
「先生のお顔を見たくて・・・」
「正月早々冗談を言うな。何か・・」
「はい。お礼を申し上げに来たところで御座います」
「地理書の事(訂正増訳采覧異言)でか」
「はい。あのような勿体なき文を手にして、心が震えた所に御座います」
普段よりも生き生きとした顔を見せる。
「今は亡き明卿先生(宇田川玄随)や安岡(玄真)殿に並び、堂(芝蘭堂)で吾が胾(大槻玄沢の肉)を喰らう者として吾の名を挙げ、十数年一日、(山村は)かの白石(新井白石)先生の采覧異言を補い全十二巻を上梓したと有るに感激しております。
これを読むにその説、精詳、明備にして白石先生未だ良く尽くす能わざる処を尽くす。地海坤輿方域の至大、四方万国、地形の広袤、国俗の情態、政治の得失、人類の強弱、物産の恠異模蘇、牽連周悉その極みに至る。
如何です?、諳んじて語れるほどに御座います。地理学を本旨とする吾にとって正にこの上ないお褒めの言葉に御座います。
しかもその後に、吾が社中にかくの如き効(成果)を上げたる人を得しは嬉しき限りと続くは、吾にとって過ぎた歳月が報われたとも、また今後の大きな励みにもなります。
序文に十数年一日と御座いましたが、吾はまさにこの十年余と言うもの碌に家の事も顧みずに過ごして来たれば、正直、反省もして御座います。
今に実母(女流歌人、山村まき)は自ら万葉の世の女房に例えて、「吾は苦労の内侍」と申しております。病弱な吾が妻を手伝い毎度の食事作りに掃除洗濯、加えて孫の世話。夫の世話も御座いますればその様に語るは無理なからぬこと。
過去の事は如何ともしがたいが今後に少しは家のこと、嫁にも倅にも気を回していかねばと思いもしているところに御座います」
昌永の言葉とも思えぬを聞きもして嬉しくもなった。隠居した父上の(土浦藩)馬周り役どころを継いで世帯の大黒柱になったことを意識するようになったか。
初婚の妻には御子も出来たというに逃げられ(寛政六年、妻・内藤氏は夫、才助及び子供(娘。園)を置いて出奔)、また今に原因不明の病に罹った二度目の妻と出来た子(豊次郎)を抱えながらに和蘭地理書の翻訳に没頭して来た。それを傍で見もしていただけに嬉しくもなる。
(玄幹の)長崎遊学のお許しに昌永の言葉を聞きもして今年は正月早々良い年か。
「御屋敷に上がりもして、倅玄幹の長崎遊学のお許しが正式に(吾に)伝えられての。
祝い事に、其方の采覧異言完成も有る。一緒に祝い酒を飲んでいくが良い」
(大槻玄沢の訂正増訳采覧異言に寄せた序文は全て漢文である。その末尾に「享和壬戌(享和二年))之冬 磐水 平茂質 撰」とある。
(文化元年(一八〇四年)、訂正増訳采覧異言は幕府に進呈された)