十六 小春
「うん。来たか。
ちょっと前まで先生からお預かりした草稿の内容を倅に話して聞かせていた所よ。
吾自身が(草稿に)感激しての、先に玄幹に話もしていたところじゃ。
もう其方の寝る時刻にもなっていようかの。悪いが妻も一緒に聞くと言うゆえ許してたもれ。
呼びもしたは、先生の所に行く道々に聞きもした其方の話に(吾の)気が行っての。
(其方の)江戸上りに至った経緯を詳しく聞きたい。また田舎の今の事どもをもっと知りたいと思っての・・・」
頷く小春だ
「妻が用意した菓子じゃ。口にするが良い」
「有難う御座います。何からお話すれば良がっぺ(良いのでしょうか)」
「うん、差し支えなけば其方が大槻家に奉公に上ることになった謂れから聞きもしたいと思うがの・・・」
ちょっとの間があった。
「話たくなければ話さずとも良い、
大肝入り様と、大槻家で働く使用人との間の勉強会の事でも良い」
純の方が吾の言葉に頷く。
小春は軽く首を横に振った。それからに話し始めた。
「勿体ねゃ(勿体無い)お話で御座いますた。
孤児になったばかりの俺の家に隣組の長と村の長が(訪ねて)来ますた。
俺の所の仕事を手伝って貰いでゃ(貰いたい)。住み込みで働く気はないかと大肝入り様(大槻丈作。改名して大槻清臣)が話を持ってきた。春は如何する、との事ですた。
それまでにも親戚の何人かが心配もすて俺の所に顔を出すて呉れでも居ますたが、誰一人引き取ると、俺の所に来いど言ってくれる人は居ませんですた。
父の兄弟になる叔父さんや、母の一杯いる兄弟従妹さえもそうですた。
皆々がその日の生活に追われている身ですたから・・、俺でさえ間引ぎの話すこを耳にすていだがら・・・。誰も責めるごども恨むごどもできません。
俺の家でも間引きが当たり前で、女子と分かれば働き手に何ねゃ(ならない)と・・・・、俺が一人っ子なのもそんな理由ですた。
俺が孤児になったは十一(歳)になったばかりの冬です。
忘れもすません、寛政八年の師走の半ばですた。その夜は大雪が降っていますた。
何時も父と一緒に山に出かけていた母は風邪に罹って体調が悪いど、二、三日寝込んでいますた。
朝方近くですたけど、まだ周りは雪灯りの他は真っ暗だったべ。戸を叩く大きな音に父も母も俺も目を覚ますますた。父の仲間の炭焼きこが玄関口に立っていますた。
「火事だ、窯が落ずだ、炭小屋が火事だ!」と急を告げに来たのですた。
その夜はその駆けつけた人が番をする、窯の番兵(役)だったのです。(出かける)仕度をすた父は、その人に付いで一緒に現場に行ったべ(行ったのです)。
窯が落ちたとは木炭を造る火の入った窯が何かの原因で潰れてすまったごどを言います。それは、窯の中で木炭になるはずだった木が全部ダメになる、ただの灰になってすまう。入れ札(入札)すて確保すた楢の木やクヌギの木がダメになる、当てにすていだ銭子(収入)が無ぐなってすまうごどを意味すます。
父が現場に駆けつけで、どの様な行動に出たのが分がりません、朝に、真っ黒になった遺体で発見されたのです。俺の家さ呼びに駆けつけだ人も遺体姿だったそうです。
(木炭)焼きこ仲間の皆さんが、二つの遺体を囲んで俺には見せで呉れませんですた。遺体にすがったのでしょう、泣き叫ぶ母の声だけは忘れるごどが出来ません。
母がその炭焼き窯の有った傍の木で首を吊ったのは二日後の事ですた。
無残な遺体を見せることは出来ねゃと、俺は母の遺体にも取りすがることも出来ませんですた」
純が手拭きを口にした。その頬を涙が伝う。吾は聞かねば良かったかと思いながら奥歯を噛みしめた。悲劇が裏にあったなどと思いもしていなかった。
語る小春の頬にも一筋の涙だ。嗚咽を我慢している。そして続けた。
「お世話になりだすて十日余り、初めでのお正月ですた。
大肝入り様ご家族に揃って俺達も一緒に正月の膳を囲めるどは思ってもいませんですた。すかも、普段の板の間でのお膳ではありません。
正月元旦のお膳は、黒と赤に塗られた高脚付きのお膳でお座敷に用意されますた。
あんこ餅も、雑煮も、きな粉餅も目の前の膳の上に有ります。一人一人に煮物、漬物、なます(大根おろしの酢の物)にお刺身、小ぶりですたけれども鯛の尾頭つきの焼き魚です。こんな贅沢な膳は俺は初めでですた。
お父にも、お母にも食べさせてやりだがった(やりたい)と思ったら涙が止まりませんですた。
席を並べで隣に座った先輩、お米さんに軽く肩を叩かれたり優すく抱かれたりすたのを覚えでいます」
語りながら過去の事を思い出したか、下を向いたまま口を噤んだ小春だ。肩が小刻みに震えている。純がそっと手布を手渡した。暫く待った。
「大肝いり様の、明けますておめでとうございますの後に、使用人の皆が明けますておめでとう御座いますと唱和すん(る)のにも吃驚すますた。いえ、感激すますた。心が震えますた。
皆がお箸を持つ前に、大肝入り様が我が家の家訓だど言って、人は皆、神様の前に同ず(同じ)だ、西洋の教えにも有る、覚え置くようにと語りますた。
俺は少すばかり聞いだ事のある耶蘇の話すか、昔に獄門、磔になった人がこの村辺りにも居だど聞いでもいますたけど、西洋の教えが何なのが、それ以上のごどは分かりません。ただ、大肝入り様の心が知れで本当に有難いごどだと思ったのは事実だべ(事実です)。
一年を通すて七夜(一週間)に一度、決まって真ん中の日の夜(水曜日)、六つ半(午後七時)からの半刻(約一時間)は、いろはの読み書きから論語とか言う物の勉強会ですた。時には、一刻(約二時間)になった時もあんべ(時もある)。
大肝入り様が、この家(大槻家)を離れでも読み書き計算が出来れば何処に行っても生活が成り立つべ(立つだろう)、何処ぞに働き口を探すことも出来んべ(出来よう)とのお話に御座いますた。
その時折に、江戸に出だ先生(玄沢)や建部様(由甫、伯元)のお話に、衣関様(衣関甫軒)とか言う眼のお医者様の事をお聞かせいただぎますた。
先生(玄沢)が西洋の文字、蘭語を訳す大家なのだと言って、ある日に横文字を並べた大きな紙を皆の目の前に見せられだ時には吃驚すますた。これが日本のいろはと同ず(同じ)、欧羅巴ではこの文字を使っているのだとお聞きすて、何が何だか分がらないけども大槻家は別の世界にあるどいう気がすますた。
あの田舎でも西洋とか、欧羅巴とかのお話が聞けるなどと誰も思いませんでしょ。俺など、大肝入り様の所に行って初めで世界地図と言う物を見ました。西洋だの欧羅巴だの、蘭語と言う言葉も初めで耳にすますた。
大肝入り様だけのごどでは御座いません。奥様が針仕事や洗濯するに当たって注意するごど、礼儀作法まで教えでくれだのです。お茶を点てるなどすたことが御座いませんですた。
お父やお母とは毎日が食うや食わずですたがら、大肝入り様ん(の)所での凡そ六年間(の生活)は俺にとって正に天国の様ですた」
小春の話に、ふと、花の事を思い出した。
「皆よりも先に俺が手を挙げで、旦那様も奥様も喜んで送り出すて呉れますた。
奥様は我が子を送り出すが如く涙さえも見せますた。
俺も泣かずにはいられながったー。
身体だけは大事にな。女子だがらど女子を言い訳にするな、一生懸命生ぎろ。旦那様(大肝入り様)の最後のお言葉は忘れられねゃべ。(忘れられません)。
この江戸に来れたん(の)だがら、先生にも奥方様にも一生懸命尽ぐさせで頂くべ(頂きます)。至らぬごども有っぺけど(有るでしょうけど)。そん(の)時は宜すぐご指導下さい。俺も勉強すっから(しますから)」
ペコリと頭を下げる小春だ。その仕草に思わず声を掛けた。
「家の事どもは家内や皆の教えに従うが良い。
この家でも、勉強会は続けねばならないかもの。
儒学漢学に西洋の教える良き生活習慣とも言うか、この江戸でも日本でも真似た方が良いという物を普段の生活に取り入れていかねばの。
其方の事が知れて良かった。田舎の事が知れて良かったよ。有難う。
(純が)折角に用意した物だ。包んで持っていくが良い」
「はい」
襖を閉じる小春を見送って、純を見た。
「良いお話が、聞けましたね。
明るい小春から、あのような悲しいお話を聞くとは思いませんでした。
それにしても、貴方様の田舎は・・・」
「うん。良い話を聞けた。流石に丈作だ。民治の兄よ(丈作、大槻家第七代、大肝入り、大槻清臣)。
(小春と)話していて今の一関の大槻家を想像したよ。
吾も小さい頃に大槻家の伯父の前で読み書き、論語等を学んだものよ。
丈作はそれを傍に見ていて、その教えを今度は使用人まで広げたことになる。使用人を対象に勉強会を開くなど素晴らしいことではないか。
吾にその認識も考えも欠けていた。芝蘭堂に入って来た皆々に蘭学、翻訳の仕方、知る医学医術、本草等を教授する頭は有っても、使用人の勉強を図るなどとの考えはなかった。
能々考えれば、生きるに必ずしも蘭学を知らずとも良い、阿蘭陀語を知らずとも良い。だが、縁が有って吾を助けて呉れもする使用人だ。何処に行っても生活が成り立つように読み書き、算盤を最低限教えねばなるまい。
吾は翻訳専一と心に決めておる。阿蘭陀語の翻訳家だ。翻訳をもって世間に世界を知らせること、異国の良き教えをこの日本に伝え広めていくは己の役目ぞ」
「はい。西洋の教える天文も地理も測量も医学も、国の裨益(助け)になるとの貴方様のお考えも行動も尊敬して御座います。
何時ぞや、オロシヤの事をお話されていましたでしょう。親を失くした児を育てる幼院が有る。子供を育てるはお国の仕事だとお話されていたでは御座いませんか。
小春の体験した間引きはこの江戸にても耳にします。悲しいもので御座います。有ってはならないことで御座います」
純の言うに頷いた。同時に観心院様の事が思われた。間引きを禁じた幕府の政策(明和四年、一七六七年「出生之子取扱之儀御触書」に応じて(仙台藩)領内各村でも神官や僧侶によって間引きはならぬと教化活動がされている。その具体的成果を上げんがために御屋形様お二人(第七代仙台藩藩主、伊達重村と、第八代藩主、伊達斉村)が併せて二百両を各村の代官等を通じて村長等に下賜したと伝え聞いていた。
観心院様もまた、お二人が亡き後、私財の一部を売り払い何と二万両もの金子を都合して(各代官等を通じ)各村の妊婦等に分け与えたと近頃評判なのだ。あの広瀬川の灯篭流しに加えて、何時も民の事をお考え下さる御方だ。
(現代でも毎年八月二十日に行われる広瀬川の灯篭流しは宝暦、天明、天保の世の飢饉による犠牲者を弔うためとされ、観心院により始められたと伝わる)
小春にも丈作にも、また、観心院様にも教えられたなとの思いがした。。