「いや。初耳じゃ。すっかり御無沙汰しておるでの。
どのような話じゃったかの。磯吉殿が寛政十一年だったか、その暮から田舎に行って来たことは知っておる、聞きもしたが・・・」
「はい。光太夫様は、二十年ぶりになるとのお話でした。
この春(享和二年)四月も末に、お伊勢の方、故郷の若松村(伊勢亀山藩の領地)に帰って来たとの事に御座います。
途中から隠しもせず涙ながらに語りましたけれども、お聞きしていた吾とてもらい泣きしましたよ」
話が長くなると察したか、手代が店の端の方に寄れと主人共々吾と小春を誘導した。腰を下ろすと、お女中がお茶を新しくした。
「江戸に在る亀山藩の二人が同行したそうに御座います。監視するというよりも幕府の重要な人物扱いでは無かったかと、しきりに恐縮して御座いました。
亀山に到着した光太夫様は、先ずは庄屋様の家に一泊して庄屋や親戚の者の歓迎を受けたそうに御座います。そして翌日にはお伊勢参りに出かけたそうです。
遠く離れたお伊勢様にこの江戸からもお参りする方が多く御座いますからね。そこに育った光太夫様は何かあればお伊勢神宮に願をかけるは当たり前のことだったでしょう。
二十年前も、船の安全航行を祈願して白子の浦を出たのだそうです。(遭難した)嵐に会うなど、夢にも思って居なかったと言いましたな。
若葉の茂る季節に帰郷したとの事ですが、何故か暗い、深いお伊勢の森の中に入っていくような気がしたと言っておりました。
日本に戻って来れた、感謝をと思って参拝に出かけたのだそうですが、途中から自分一人が帰って来たのではないと思ったそうです。
神殿を前にすると、途端に己の身の回りに立つ人の気配を多く感じたと言います。遭難して亡くなった水主の顔が一人一人頭に浮かんできて、申し訳ない、申し訳ないと、神様を前に涙が止まらなかったと言っておりました。
それから戻って白子の浜に立ったのだそうで、その時には一層のこと涙が溢れて溢れてどうしようもなかったと言いました。十数年もの間の過酷なオロシヤでの放浪生活が走馬灯のように思い出されたと言いましたな。
波の音と潮の匂いに吾に返って、死んで行った仲間十三人、一人一人の名を口にして、白子の浦だ、帰って来たぞと、海に向かって叫んだとか。
人目も憚らず声を出して泣いた、足が波に洗われるままに砂浜に膝を崩したと言ったときには、聞いている吾も番頭さんも涙を覚えましたよ」
心穏やかならず藤七殿の語るを聞いていたが、小春が何時しか泣いている。吾の手拭き(手布)を渡した。
「その後に船主の一見諫右衛門様とか言うお方のお屋敷に行ったのだそうで御座います。
お会いした(船)主様は脇息に身を寄り掛けて光太夫様を迎えたそうです。皺が一層増え、少なくなった髪は真っ白だったそうです。
光太夫様は二十年経っても船頭さんのままでした。船を失い、積荷を失くして申し訳御座いません。仲間を亡くして今更おめおめと生きて帰れる身に御座いませんけれども何卒お許しをと、頭を畳に擦りつけたそうにございます」
聞きながら、頷いている自分に気付いた。
「主様はか細い声で、『戻れて良かったの』と言ったきり、後は何も言わなかったそうです。横を見たお顔は涙をにじませていたとお聞きしました。
御屋敷は二十年前の活気にあふれた賑やかな屋敷では無かったそうです。
帰る道々、主様と自分、それぞれの二十年の歳月を思い、想像して、(頬を)伝う涙を抑えられなかったと言いましたな。
翌日に御先祖様や父母等の眠るお墓参りを済ましたそうでございます。光太夫様は、何処に行っても涙を禁じ得なかった、涙もろく成りましたと声も無く笑って語りました。
その後に、唯一の肉親、お姉様の嫁ぎ先で数日を過ごしたそうに御座います。
お顔を出す先々、何処でも遭難のことオロシヤの事を聞かれるのは仕方ないが、亡くなった仲間十三人、改宗したが故にオロシヤに残して来た二人の事を思うと、その度に気持ちが落ち込むと言っていましたな。
乗組員のご家族が訪ねて来る度に、最後を話して聞かせた。お詫びしても頭を下げても結局自分は生涯、神昌丸の船頭、遭難した船の責任者だったことを終えることが出来ないと改めて思ったそうに御座います。江戸への帰り支度は庄屋さんの所でしたとのお話でした。
吾は光太夫様のその後のお話にも感動しましたよ。己が家の仏壇で良い、少しばかりの花とお線香だけで良い、春秋のお彼岸とお盆の時だけでも若松(村)の故郷を思い、白子の砂浜と穏やかな波を思って皆の供養をしようと決めたと語りました。
己をはじめ十七名全員、神昌丸の乗組員の名を一覧にして、白子の浜の一握の砂と拾った貝殻一つを和紙に包んで仏壇に納めたとのことに御座います。
吾は、貝殻は十七必要だったのではと余計なことを言いました。光太夫様は首を振りました。一つの貝殻が十七名全員の心を表す、一つの心だ。望郷の思いだとの事でした」
[付記]:日曜日、NHKの大河ドラマ「べらぼう」を見ました。田沼意知(たぬま・おきとも)の殿中暗殺を見ながら、この後に田沼意次は失脚する。花魁を身請けした土山宗次郎は武蔵国山口観音寺に隠まわれていたが見つかり、江戸に送られて斬首になる。花魁身請けに使ったお金が公金横領と判断される。
松平定信がいよいよに登場し、日本史で習った寛政の改革を進める。質素倹約政策に反すると蔦屋重三郎も手鎖となり、御白洲で鞭打ちの刑に遭う。めげずにその後、東洲斎写楽を手掛ける、復活する、だけど間もなくに蔦重は寛政九年に死ぬ。老妻を相手にそこまで言って、叱られました。あまり先を言われると、興味も面白みも半減するとの事でした。
小生が老妻に言いたかったのは、武蔵国山口観音は、凡そこの50年、毎年新年のお参りに行っているあの所沢山口千手観音の事だよ、狭山不動尊と一緒にお参りしているお寺だよです。
老妻の言葉に後を語るを止めましたが、以前に付記に書いた大リーグ・エンゼルスの菊池雄星君が汗水たらしていた西武ライオンズ二軍の練習場の近くに在るのが山口千手観音です。水子で亡くなられた赤子を供養するお寺としても有名です。小生も、己の水子供養にと毎年正月に御焼香に寄るお寺です。
蔦重が、大槻玄沢を有名にした蘭学入門の書「蘭学階梯」の発刊(第二版以降)にも従事していた、田沼意次も意知も土山宗次郎のことも、小説・大槻玄沢抄を書く文献調査の中で皆々知った事でした。既に第十八章、寛政九年の項の一つに、蔦重の御焼香に出かける玄沢を書かせて頂きました。