十二 前野良沢の引っ越し

 何とした。そんな馬鹿な。これから冬に向かうではないか。独り暮らしは容易な事では無い。ましてや御老体の身で・・・。それで良いはずがない。耳を疑った。

「有難いがの。そう心配するな」

 薄くも成った頭髪に白髪がまた増えもしていた。その姿も、別れ際のお言葉も吾の身から離れない。潮の匂いの混じる追い風が寒さを一層感じさせる。

老々(ろうろう)の身にあればお役目を(ろく)に果たせぬようになった。

 役目を果たせぬ者がのうのうと屋敷内にあるは己のこととて許せぬ。

それ故の結論じゃ。吾とてよく良く考えてのことぞ」

 歩きながらに、今も先生のお言葉を繰り返し思う。長年住んだ鉄砲洲、中津藩の屋敷を離れるなど驚き以外の何物でもない。思ってもみなかったことだ。

 先生らしいお考えと言えば確かにそうだが、本人にとってそれが良いかどうかは別問題だ。やはり、倅殿(前野長庵)も奥方様(珉子(たまこ))も長女(富士子(ふじこ))も先に亡くしたことが先生のお考えに大きく影響していよう。いや、養嗣子(ようしし)との間が上手(うま)く行っておれば住み慣れた屋敷を離れる必要も無かろう。

 頣(しん)(あん)殿(前野頣庵、前野良沢の養嗣子)が先生の後を継いでいたら、中津藩の藩医の身を継いでいたら・・・。否、先生の事だ、それを望まない、必要な手筈を進めなかった理由が有ったのだろう。

 吾とても、(しん)(あん)殿の良からぬ噂を耳にしている。工藤様が何時かに、吾にも責任の一端があるとおっしゃっていた。養嗣子は、先に江戸の華やかな街の誘惑に溺れたか。

「根岸貝塚(現在の東京都荒川区日暮里三丁目の辺り)の方に、一人住むに良い茅屋(ぼうおく)が有っての。

間もなくに師走(しわす)になるが、そこに移り住むことにした」

 八十(歳)にもなる老いの身だ。大恩ある先生の事だ。放っておける問題ではない。

 残る娘子は峰子(みねこ)殿と言ったか。小島春庵殿が所に(とつ)いでいるはずだ。余計な事かもしれないが相談せずには居られない。

         十三 藤七に聞く大黒屋光太夫のその後

「どうだ、江戸の生活も言葉も慣れたかの?」

「はい。やっと街を一人で歩けるようになりま()たが、まだまだ怖くて、怖くて。

人の多いのにも(みず)にもまだ慣れなくて・・・。

 一歩角を間違(まずが)えればどこが何処だ()。自分がどこを歩いてい()(る)の()(わが)らな()なります。田舎の畑道、田んぼ道、一本道だけの街道筋と違うべ(違いますからね)。

 奥方様、お京さんに頼まれ()用足すに、(おす)えでい()だいたお店とお屋敷の間だけをまだ行ったり来たりだべ(です)。

(わだす)の話()言葉も田舎弁丸出()で、おしょ(・・・)すぐ(・・)(恥ずかしく)なります」

 久しぶりに聞く田舎の言葉だ。(はる)の言うを聞いても悪い気はしない。畑道、田んぼ道、おしょ(・・・)すぐ(・・)、が吾の心を温かくする。

民治に頼んで新しい使用人にと田舎から連れて来てもらった春は、これから吾が家の皆に馴染みもして行くだろう。(民治は父、大槻清雄の初盆で一時、一関に帰省した)

 春が小柄ゆえにか、家の者どもはいつしか小春と呼ぶようになった。本人がそれで良いと笑顔を見せて、それで決まりた。

「これから行くところは薬屋での。

 真冬に向かうこの季節じゃ。事があれば家族、家の者ども皆がお世話になっておる。

(すみ)やお京の使いの時もあるかと思うで、店もこの道も知っておいて貰いたい所じゃ」

「はい」

 返事をするにも、残る夏の日焼けした顔に白い歯を見せる。十七歳か。健康な証拠だなと思う。

 藤七殿が(たな)だ。また少し暖簾(のれん)が大きくなったのではと思いながらにそれを分けた。

 藤七殿は先客に応対している。手代の方が先に寄って来た。「春」を「小春」と紹介して、時に吾や家内等の用事で来ると話した。

 お女中がお茶を淹れて来た。また人手が増えたなと感心しながら、商売が順調に有ると想像した。

「お待たせしました。お元気で御座いましたか。

 早くも風邪(かぜ)流行(はや)りだしたとかで、この冬も心配になります。

 薬を商売にして御座いますが、病の基は要らぬ物で御座います」

「うん。今、番頭さんとお女中に紹介もしたが、今度から吾の所の使いでも来る女子での。小春と言う。お見知りおき下され」

「はい。こちらこそ宜しくお願い致します」

 言葉尻を小春に向ける、腰の低い藤七殿だ。

 小春はと見れば、赤い頬っぺたを殊更赤くして頭を下げた。言葉が出ない。

「返事は如何(どう)した、宜しくお頼み致しますと言わねばの?」

「んだども・・」

 そこまで言って、右の手を口に持っていった。

「江戸に来たばかりの吾と同じじゃ。田舎言葉が出ようと余計な心配は要らぬ。

 それも含めて小春を宜しくの・・」

 言葉尻を藤七殿と番頭殿に向けた。声も無く、了解したと笑顔で頷くお二人だ。

「今日は、今の流行(はや)り風邪に()く薬が欲しくて来た。

 次男坊はきかん坊(・・・・)とも言うが、吾の所は上(長男、玄幹)と年齢(とし)が離れすぎているせいかの。(ろく)(次男、六次郎)は良くに風邪を引く」

「はい。この冬は早くも風邪が流行りそうだ、どの(・・)()が効果を発揮するかと仲間内にても話になっております。

 西洋の教えでは、先ずにうがい(・・・)をするのが第一とか。

 先日にお越しになった光太夫様(大黒屋光太夫)も、御子(おこ)のためにと風邪薬を所望して御座いました。

ご紹介を受けてからと言うもの、光太夫様にも何度かこの店を御利用頂いております。

 ご家族揃って早くも風邪を引いたと苦笑いして御座いましたが・・・。その徒然(つれづれ)に近況をお伺いすれば、田舎に行って来たとの事で御座いました。

 ご存知でしたか?}