十一 訃報―原田孝次、星野良悦、大槻清雄、朽木昌綱
驚いたのはそればかりでは無かった。身幹儀は(寛政)十二年の暮れに医学館に納入され、次に程無く天真楼に届けられると思って居たに、何と、何と、作り手の原田殿(原田孝次)が医学館に納入したばかりに他界していたと香月殿(香月文禮、広島藩士)からの情報だ。
身幹儀は簡単に造れるものではない。思案する星野殿の姿を想像していたが、一年前の原田殿の死を耳にしたばかりなのに何と何と、今度はそれから七日と経たず星野殿も病で身罷ったと聞く、何としたことだ。
(星野良悦が亡くなったのは享和二年三月一日、西暦一八〇二年三月二十二日。結局、身幹儀は天真楼に納入されずに終わった)
この半年、惜しい人を亡くしたと吾の嘆きは続いた。父上亡き後、江戸に出て来るまでの母や弟(陽助)の面倒を見てくれもした叔父が亡くなった(大槻清雄。大槻家七代目大肝入り。丈作と民治兄弟の父。享年六十二歳。)との状(手紙)に、急ぎ一関に戻る民治に御香典を託したものの、忙しい身に有るとはいえ吾はただただこの江戸からご冥福を祈るばかりだった。
また、今度に何を出版するのかと何時にも御声をかけて呉れていた朽木侯(朽木昌綱)が、まさかまさか、五十(歳)も過ぎたばかりにお亡くなりになるとは・・・。己の死の近いことを知って家督相続を急いだのか。
吾が今の身にあるのは誰のお陰ぞ。先生(杉田玄白)に良沢先生(前野良沢)、中川(淳庵)先生に有坂(基馨)先生、法眼様(桂川甫周)に工藤様(工藤平助)、そして長崎で散々にお世話頂いた吉雄殿(吉雄耕牛)、長崎通詞の皆々様。お一人おひとりに感謝申し上げねばならないが、金銭的な支援は間違いなく一番に朽木侯だ。長崎遊学の折に法外な支援を頂いたのも、蘭学階梯の序文を認めながらに初刷りの費用の殆どを支援してくれたのも朽木侯だ。
お返しに何が出来たかと己に問えば、言えることとて無い。出来た出版物をお届けするにも多忙な侯に碌に説明する機会さえも無かった。何時も、何処ぞの黒塀(小料理屋)にお呼ばれしたときに、僅かばかりの時間に出版物の中(内容)を説明させていただいた。
侯は何時にてもニコニコしてお聞きしているだけだった。最後に決まって言う、「日本は世界に学ばねばならなぬ」の侯の御言葉を今も思い出す。
(享和二年四月十七日。西暦一八〇二年五月十八日、朽木昌綱没。享年五十三歳)
残る半年。芝蘭堂の経営の傍ら必ずにせずばなるまい物は何か、半紙に書き連ねてみた。
一つ、カピタン江戸参府の折の蘭人対話のまとめ(四年振り。)
一つ、先生の七十(歳)を迎える寿ぎの詞
一つ、良沢先生の八十(歳)を迎える寿ぎの詞
一つ、大浪(石川大浪)が己の勉強にと今に書き写している狩野探幽が絵図、彼の画帳への跋文
一つ、昌永(山村昌永、才助)の完成を見る地理書(訂正増訳采覧異言)に序文
一つ、蘭学会の宴の段取り
一つ、身幹儀に掛るまとめの書
一つ、玄幹の長崎遊学にかかるお許しの申請
外に無いかと思案しながらに、そう言えば、幕府からで報奨金を原田殿も星野殿も手にすることが出来なかったなと思いもした。
(享和二年六月末、身幹儀に掛る報奨金として三十両が幕府から広島藩に下されている)