十 稲村三伯の脱藩

 源四郎(工藤源四郎)が吾の推薦通りに(藩の)御近習医に取り立てられ江戸定詰となった。喜ばしきこととほっとしたのもつかの間、稲村が事を耳にした時、(まこと)の事か真の事か、嘘ではあるまいなと何度念を押したことか。

 四月、稲村三泊が鳥取藩を脱藩し、身を隠した。何のため、何があったと半信半疑だった。安岡も山村も吾の目の前で口をへの字にして唇を噛んだのだ。

 段々にその事情を知った。二月九日(享和二年二月九日、西暦一八〇二年三月十二日)、稲村は南町奉行所に出頭した。何のために呼び出されたのか何のためにお取り調べが有るのか、その時点で稲村自身何も分からなかったらしい。

 後に、御奉行様、根岸(ねぎし)肥前(ひぜんの)(かみ)(しず)(もり)直々(じきじき)のお取り調べだった、弟の多額の負債事件に関連してのお取り調べだったと稲村自身から聞きもした。

 事の真相は分からぬが、日本橋も大伝馬塩町で古着屋を営む稲村の弟、越前屋(えちぜんや)大吉(たきち)が、同じ商売仲間の古道具、古着を扱う(日本橋)横山町一丁目の中津屋彦兵衛という者から八十両もの大金を借りていた。だが、期限を過ぎてもその支払いが無い。

 お役人は三伯に保証人になってもいようと、厳しく問いただしたらしい。だが、稲村には全く身に覚えのない事だった。

 稲村に嫌疑が掛るようなことを弟御が言ったのかと聞けば、弟はそのようなことを話してはいないと言う。されど詰問されていて段々と分かった。御奉行所は最初から如何にも蘭語の翻訳を良くに思って居ない。それが証拠に、態々(わざわざ)若い藩主、池田侯(池田斉邦(いけだなりくに)。当時、十六歳。因幡国鳥取藩第七代藩主)。)を通じて吾を呼び出していた。お殿様をすら今の世の幕府の方針、鎖国に従うかを確かめていた、と稲村の言葉だ。

 調査に当たりもしたお役人は、何処かで兄が蘭語の翻訳に従事している、初の蘭日辞典作成を試みていると情報を手にして、とあれば(ほり)()りに出版に多額の費用が掛かる、兄のためにも負債を抱えたかと推測し、問うたらしい。

 稲村は藩に迷惑を掛けられぬと出奔した。弟御の事も心配であったろうが、それで若いお殿様をも思う彼の心根を知りもした。

 弟が兄を思って多額の借金をしたと言うのであれば兄弟愛を思いもする。だが、横文字は版木にする、訳文は皆で手分けして書く。それが三十部も出来上がれば後は必要とする者の筆写に委ねる、と皆で決めていたのだ。皆が協力してその通りに実践していたのだ。

 借金の真相は分からぬが、吾が聞いても、親しくしていた山村や安岡が聞いても、稲村は仮にも借金がハルマ和解出版のためとは口が裂けても言わないだろう。

 稲村は真面目で正直な弟子だ。蘭日辞典の作成に取り組んでみるかと宿題を与え、吾が思う以上に刻苦(こっく)勉励(べんれい)に努めてきた。石井殿(石井庄助。白河藩、藩士。元は阿蘭陀通詞)を紹介したのも吾だ。

 脱藩よりも先に相談して欲しかったとの思いがしてくる。吾とて今に幕府の若年寄りにある堀田様(堀田正敦)に相談や、堀田様を通じて御老中に意見を具申することも出来たろう。また先生(杉田玄白)を通じて白河侯に相談する手もあったのではないか。

 稲村は今に下総(しもうさ)(のくに)稲毛(いなげ)に隠棲しているとおいおい知った。とにもかくにも生活が出来て居ればまたの日に彼の復活を期待できる。この江戸に呼び寄せることも出来よう。