八 鎖国論、古事記伝

 師走(しわす)とあれば、例年(いつものとし)に変わらず先生の所に暮の挨拶に伺った。新年は何かと忙しく、また来客も多かればこの頃は決まって暮に伺うことにしている。

 先生の地獄耳も相も変わらずだ。長崎も、楢林(ならばやし)重兵衛(じゅうべえ)殿が死んだとお聞きして驚いた。享年五十一(歳)と聞けば吾と五つ、六つしか違わない。寛政十年の蘭学会の宴の相撲番付(見立て)に西張り出し大関にしたばかりだ。

 松前(蝦夷地、松前藩)から戻って来たと、吾の所にも挨拶に来た時のことが昨日の事のようにも思い出される。目に見えぬ疲労が命を奪うほどに(たた)ったか。

 あの太田(おおた)南畝(なんぽ)殿が大坂も銅座(どうざ)に努めるようになったとお聞きして、これまた驚きだ。大坂に出向いたことも知らなかったが、逆に大坂からの情報だという先生に納得だ。京、大坂に知人、友人を多く抱える先生だ。誰ぞの状(手紙)にそれを知らせる事が書かれていても不思議はない。

 南畝殿は(しょく)山人(さんじん)と号し、改めて木村兼葭堂や上田秋成殿等と交流しているのだと語る。聞きながらに、その号、蜀山人の謂れを吾とて調べてもみたくなった。

「隣国、唐(中国)では「銅山」の事を「蜀山」と言う。

 南畝は大坂も銅座に勤めることになり、それと知って洒落もある、号を蜀山人としたらしい」

 先生の解説だ。流石だ。

「長崎も、志筑忠雄(志筑忠次郎、中野柳圃)殿が、「鎖国論」と言う物を書き表したことご存じですか?。

 石井殿(石井庄助)にお聞きしたことで御座いますが・・・」

 軽く首を振る先生だ。伯元殿も首を横に振る。

「かつて出島に医者として来ていた独逸人(どいつじん)が、本国に帰って日本を紹介する本を書いたようで御座います。

 その「日本誌」という一世紀も前に書かれた本を手にした志筑殿が、偉人の目に日本がどの様に映っていたのかと興味を抱き、その結果に翻訳したそうに御座います。

 吾等とてそうと知れば、偉人が何を書いていたかと大いに関心が行きましょう。

 独逸人の名はケンペル。そのケンペルは日本を鎖国と称していたそうに御座います」

「鎖国?」

 伯元殿(の声)だ、同時にその目はその先を聞きたいと語っている。

「はい。ケンペルは、自分達の小さな世界に閉じこもり隣接する国とも交流せずに平和に暮らしている、それが日本人だ。

 日本に倣えば世界の国々もまた幸福に成る。要らぬ戦争をすることもない、と国を閉じている日本の今の姿を褒めているとか。

 それを受けて翻訳するに志筑殿は日本を「鎖国」と表し、成った「鎖国論」とかいう本に、鎖国政策は道理から外れていないと語っていると石井殿のお話に御座いました。

 近年、オロシヤ船の行動から北(北国)の守りが大事になっている、阿蘭陀(おらんだ)()(らん)西()によって属国(ぞっこく)にされた、長崎の海に仏蘭西、()()(りす)亜米(あめ)()()の船が見られるようになったが蘭船が見られない、と志筑殿が憂慮しながらにお話したとお聞きして御座います。

 石井殿のお話を一緒に聞いていた稲村も山村も、また安岡も吾も頷いたところに御座いますけれども、その一方で医学、天文、地理、測量、鉱物、薬物、生活の有り様から吾の苦手な電気、窮理に至るまで世界に倣うこととて多いと、聞いた後には鎖国を指示する、いや開国(かいこく)すべきだと皆が喧々諤々(けんけんがくがく)で御座いました」

「大きな声では言えぬが、今の世に諸国との交流をもっと進めるべきだと吾に語る御大名も居る。

 西洋を知る者、蘭語の翻訳をしている者と吾を知り、吾に心を許しての話じゃろうが、患家の御大名が家を訪ねて、これも外国の物、あれも御禁制品ではないかと思う物とて少なくない。

この年寄りさえも、時代が変わってもきていると思う。鎖国とやらが何時まで続くのかの・・・」

(享和元年八月、志筑忠雄の「鎖国論」が発刊された、この書をもって江戸時代の日本を表すに「鎖国」の言葉の始まりである)

 先生のその感想を聞きながら、吾は話題を変えようと意識した。

「それに比し、日本の古き事でも御座います。「古事記伝」が江戸で騒がれたは三年前、寛政十年でしたか。それを表した本居宣(もとおりのぶ)(なが)殿が亡くなったそうに御座います。

 御存知でしたか?」

 先生も伯元殿も殆ど同じに首を縦にした。世間を大きく見ているのだろう。

「吾は地理も国学も得意とする(まさ)(なが)((山村才助)に聞きもしましたが、本居殿にお会いしたことも無く、伝え聞くに伊勢(いせの)(くに)の小児科医としか覚えて御座いません。

 昌永の推奨も御座いますれば、また、良くに知れた書でも御座いますれば今になって古事記伝を読んでみようかと思って御座います」

(芝蘭堂の門人、山村才助。寛政十二年に父、山村(やまむら)(まさ)(しげ)が隠居し、家督相続をした頃から元の名「山村(やまむら)(まさ)(なが)」を多く名乗るようになる)

 頷いたのは伯元殿だ。

「今に蝦夷(えぞ)にある新山健蔵(葛西因(かさいいん)())殿も、江戸に在った時に、あれは読んだ方が良いと言っておりました。

 年下と雖も新山殿は大槻様の漢学の師でも御座いましたでしょう。

 師匠のお言葉でも御座いますれば、是非にお読みになった方が良いかと存じます。

お忙しいのは重々知っても御座いますが・・・」

(本居宣長が亡くなったのは享和元年九月二十九日、西暦一八〇一年十一月五日である。

また、大坂も中之島の仙台藩蔵屋敷詰めだった仙台藩士・葛西五左衛門の子として生まれた新山健蔵は長崎に遊学した後に江戸に上り儒学者林家に入門した。大槻玄沢の「夢遊西郊記」に出てくる新山健蔵である。

 しかし、当時の新山は朱子学を奉じ得ず、林家一門から離門する。彼は寛政の世の終わりから享和三年頃までは蝦夷地の松前藩に帰属し、禄を食んでいた)

          九 流行り風邪ー木村兼葭堂の死、危篤の先生

 年が新まれば(享和二年)、今年も家内安全、無病息災、平和な世の中の年であれと神仏に祈りもする。そして、例年(いつものとし)通りに、さて今年の目標、抱負はと考えもした。

 だが、その目標も一年を通じて真面(まとも)に達成したことが無い。そればかりか、年頭に掲げた目標は何だったかと、己の怠慢を思いながら年の半ば頃になると反省もする。

 半年が過ぎたか、もう残り半年か、さてこれから残り半年は如何(どう)すると、時の経つのが早いと思いながらに再度目標を掲げ直すのがオチだ。

 木村兼葭堂が流行り風邪で二月に六十六歳でお亡くなりになった。大坂からの便りに驚きもした。だが、三月に先生(杉田玄白)が風邪をこじらせて重篤になった時にはなおのことオロオロした。世間で薩摩(さつま)風邪(かぜ)と評判になったが、何故に薩摩風邪と称されたか良くに分からない。風邪の流行(はやり)が薩摩屋敷から始まったでは病の根源を知ることも出来ない。

 先生は石川玄常先生の奨める「(かい)(よう)返本(へんぽん)(とう)」(内臓の循環、代謝、機能を改善する)などを口にして快癒(かいゆ)した。そして、西洋医学ばかりではならぬ、漢方を軽視してはらぬと反省もしたと語った。先生を目の前にして苦笑もしたが、どうあれ回復を喜びもした。

(杉田玄白著の「形影(けいえい)夜話(やわ)」に、この病の事の記述がある)