六 工藤源四郎の世話

 長月(ながつき)ともなれば周りの木々も大分に色づいている。紅葉(こうよう)は良い。春とは違って色づいた葉の一つ一つが上品に、ひっそりとした(たたず)まいを感じさせる。

 上屋敷に上がれば、只野様(只野(ただの)伊賀(いが)(つら)(よし)、伊達藩の家格で着座(他藩では家老等と言う)に有り、当時の江戸番頭)が待っているとの事だった。

「御苦労じゃったの。工藤源四郎殿の家督相続が整った。

 俸禄は望み通り玄米三百俵。御番医師としてこのまま江戸詰め。勤めて頂く。

 御国許(くにもと)(元)の御奉行衆、但木様(但木(ただき)志摩(しま)明行(あきゆき))、遠藤様(遠藤(えんどう)美濃元(みのもと)(なが))、等も、また今にここ(江戸)に居る監物様(大條(おおえだ)監物(けんもつ))、右衛門様(鈴木(すずき)()衛門(えもん))に、玄蕃様(長沼玄蕃(ながぬまげんば))、豊前様(石田(いしだ)豊前(ぶぜん)準直(のりなお)))様も納得しておった。

(いずれも伊達政千代を補佐する御奉行、御側用人)。

 工藤(源四郎)殿の縁組も整ったとか、皆々様が(こと)の外お喜びじゃったぞ」

 語る只野様の笑顔に釣られて吾も笑顔になった。平身低頭して感謝を申し上げた。

(当時の仙台藩七奉行衆は国許に在る。但木、遠藤の外に大内縫(おおうちぬい)義門(よしかど)片倉(かたくら)小十郎(こじゅうろう)(むら)(のり)泉田大隅倫(いずみだおおすみのぶ)(とき)松前(まつまえ)和泉(いずみ)(ひろ)(ふみ)中村(なかむら)日向義景(ひゅうがよしかげ)(後に義景を景貞に改名)である。御側用人(主に宿老、着座の職にある者)は交代で江戸番を勤めた。

 文化元年、大坂商人・升屋平右衛門に充てた伊達家文書に仙台藩七奉行衆が連署している。その筆頭奉行として石田(いしだ)豊前(ぶぜん)準直(のりなお))の名があり、後に破格の出世をしたと思われるが、大内縫(おおうちぬい)義門(よしかど)の名が無い。亡くなったのか、その後継者(子息等)がどの様になったのか筆者には不明)

 藩の中に有れば工藤平助の名は誰もが知るところだ。(源四郎に代わって)差し出した相続願いの書付を審議された方々とて、大なり小なり御国許でもこの江戸にても工藤様の世話を受けていよう。工藤様の功績を知る方々でもあるゆえ問題になることも無かったろう。

「この先のことは己次第ぞ。油断なく勤めに精進するが良い。

 工藤様(工藤平助)との事を思えば、吾が親代わりにもなるゆえ困りごとが生じた時には遠慮はいらぬ、相談に来るが良い」

(源)四郎の一季書き出しを作るに、年齢(とし)が二十八(歳)、名を(もと)(すけ)と言うと初めて知る事も多かった。父親に似て肩幅のあるがっしりした体躯だ。

 いずれ玄幹が世話になるかもしれぬ。血の繋がりが無くとも良き兄になって貰いたいものだ。

(かたじけの)う御座います。今後も宜しくお願い致します」

「うん。今宵は拙宅に足を向けるが良い。

 其方の父上には手料理も含めて散々に世話になったでの。

 また、吾の所の玄幹とも仲良くにして貰いたいものじゃ」

(大槻)民治の事も思いながらに誘った。

 玄幹の周りに彼を支えてくれる人を見つけ置くのも間違いではない。兄弟が居なければ、彼らが玄幹を支えてくれる日とてあるやもしれぬ。(おの)が身の体験からそのように思える。有坂(有坂(ありさか)()(けい))さん、法眼様(桂川(かつらがわ)()(しゅう)(くに)(あきら))が思い浮かんだ。

「玄幹殿は何歳に成られましたか?」

「うん。十八(歳)になる。

 しばし待つが良い・・・・」

 

 観心院様に御薬(ごやく)を差し上げて、待たせた源四郎と共に医者溜まりを後にした。

 さても、工藤家に帰ったとて今日の今日に祝いの膳を拵える者とて無かろう。今宵は源四郎の家督相続の祝いだ。急な同行なれど吾が家の女子(おなご)どもの料理は何とか都合も付こう。

 良沢先生に連れられて凡そ二十年前、初めて工藤様の屋敷を訪ねた日の事が思われた。四つ、五つの(源)四郎が平助料理を運んできたことを今も覚えている。

 帰りには四郎を一人待つ妹御(工藤平助の末娘、照子)のために、何ぞ手土産を持たせねばなるまい。

 (享和元年の官途要録には、凡そ一年を通して工藤平助亡き後の工藤源四郎の家督相続、跡目相続、一季書き出し、処遇等について仙台藩との交渉事が多く記述されている。工藤平助の存在が、大槻玄沢の生涯に如何に大きかったかが伺い知れる。

 なお、大槻玄沢の「官途要録」は早稲田大学図書館が所蔵し、同大学の「古典籍総合データベース」で閲覧できる)