三 工藤平助の死
妻(純)の妊娠は間違いない。お腹が目立つようにもなって来た。アーとオーとか、バブとか、何を言おうとしているのか分らないが凡そ八カ月になる五三の言うを聞きながら、妻は身ごもり易い身体にもなっていようかと思いもする。
産科専門に在らずともそのくらいのことは吾とて分るが、何よりも純の身体が健康な証拠だ。願わくば、今度は男の子であれと願う。(後の大槻磐渓、六次郎を懐胎した)
「木枯らしかの?いやに風が戸を叩くの)
「外は寒くて寒くて。汲み置きしていた家の中の飲み水さえも氷が張っていました。
師走ですもの。早くに年が明けて、陽の当たる春が待ち遠しくも御座います」
「うん、そうよの。
(吾の)田舎は今頃雪が積もって居よう。春が待ち遠しいは其方の育ったこの江戸とは比べものにならないものぞ。
春になると野も山も一遍に花が咲く。菜の花が黄色とあればまさに黄金の野ぞ。
梅の花の香りに誘われて桜の花が咲きだす。
やがて見渡す限り野も山も若葉の緑一面になる。
そこに住む皆々が、花に若葉に希望を見るのよ。青く澄み渡った空が懐かしい。
北上の山々を遠くに見ながら、大きく息を吸い込んだものよ」
「オホホホホ、そのようにここで吸い込んでも何の変りも御座いませんよ。
一度、その一関の方にも行ってみたい気もしますが・・・、
本(本当)に、春が待ち遠しゅう御座います。
寒くは御座いませんか?」
「うん。有難う。大丈夫じゃ。参ろう」
袖口の中の浴衣の裾を引っ張った。襟元に手を遣って繕いを確かめた。
「はい、膳の用意は整っても居ましょう」
悪阻も軽く済みそうで良かった。
「旦那様、奥様、工藤様の所の使いだと言う者が来て居ります」
伝えて首を傾げるお京だ。それで使いの者に要件を確かめていないと知れた。
「この朝にか?」
早い時刻に、何かあったか?と気が行く。
あの時、着たばかりの丹前を喪服に着替えるなど思いもしなかった。
使いの者の足も速ければ、吾とて足も心も急いてばかりだった。
静まりかえった屋敷で迎えたのは源四郎殿(二十七歳)と、まだ幼さの残る拷子殿(十六歳)に照子殿(十四歳)だった。使いの者の声に反応して三人共が態々玄関口まで吾を迎えに出た。
三人が三人、泣き腫らした赤い目を隠しもしなかった。思いもしていなかった父の死であったろう。
遺体はまだ布団の中だった。親戚の者であろうか隣近所の知り合いの者であろうか、寒いところ駆けつけて呉れて有難う御座います。仏様にお線香をと横から誘った。
生き返るはずもない。だが顔に掛った白布を取り、工藤様、起きなされと心の中で呼びかけた。冷たくなったその頬にそっと手を遣った。
この世の荷物を全て下ろしたような穏やかな顔をしていた。
「工藤様は寝込んで居ったか?」
「いえ、流行り病とても寝込むほどの事では御座いませんでした。
咳をして御座いましたが、薬研を自分で取るほどで御座いましたから(吾も)余り心配して御座いませんでした。それが・・・。
昨夜は、(父は)早くに床に就きました。いつも朝の早い父が、朝五つ(午前八時)を過ぎても姿を見せません。
照子の声に、吾も拷子も駆けつけたところでした。
まだ寝ているが如くでした。
雨戸を開けて光の入った寝床に、穏やかに眠っているようにも御座いました」
仏壇に先に亡くなった奥方と長庵殿(工藤元保、工藤平助の長男、)の位牌は分かったが、その横にあるは養父母の物か。真ん中に新しくも工藤元琳(工藤平助の字)の位牌が置かれてある。
手を合わせた。御線香の煙に凡そこの二十年の事どもが思い出される。江戸遊学期間の延長話に及んで良沢先生に初めて紹介された時。良沢先生に連れられて初めて工藤様の御屋敷を訪問した時。あの平助料理を初めてに口にした時の事が思い出される。
精悍な顔に、大柄の茶色と黒色の混じった丹前が良く似合った。赤い襷掛けをして笑顔を見せもした工藤様だった。
工藤様の指示に、大きな声で返事をする子等の姿だった。
寄り添う奥方様だ。目を細める若き日の良沢先生だった。
帰りに持たされた手土産の事も思い出される。
初めて歌舞伎を観たのも浄瑠璃を知ったのも、また大相撲を見た事も、吉原とて最初に体験させてもらった事も皆々工藤様だ。
法眼様と共に翻訳料だと言って法外な金子を頂いた事とて覚えている。あの時、流石に仙台藩の台所を仕切る方だと思いもした。
蝦夷地の事を初めて耳にしたことも、蝦夷地開拓が国の裨益になるとその重要性を教えてくれたのも工藤様だ。あの田沼意次公に蝦夷地開拓さえ具申したお方だ。最後は、医者、球卿に戻って徳三郎様(後の第十代仙台藩主、伊達斉宗)の命さえもお救いした方だ。どれ一つ思い出しても忘れ難い。
殊に、江戸遊学期間の延長と本藩移籍(一関藩から仙台藩に移籍)、家族を田舎から呼び寄せる際にお世話になった事どもは生涯忘れることの出来ない大恩である。
工藤様は、正に吾にとって江戸における父上であった。
三日連続で顔を出した。
「仙台には知らせたと?」
「はい。父が一番に可愛がっても居ました姉上(工藤平助の長女、工藤あや子)でも御座いますれば、状を認めて早飛脚を発てて御座います」
「うん、さぞ、驚くじゃろうな。
上屋敷の方に只野殿(只野伊賀行義、当時、仙台藩の江戸番頭。工藤あや子の夫)が居るはずじゃが、そちらには?」
「はい。何かと忙しくも御座いましょうに、(父が)亡くなったその日の夕方に御姿を見せて御座います。
御焼香して頂きました」
「後のこと、何か申していたかの?」
「いえ、仙台(姉上)に知らせよとのことでございました」
それを聞いて頷いた。
源四郎殿の家督相続を手配せずばなるまい。あや子殿と只野様の間を仲介したのは堀田様(堀田正敦、徳川幕府若年寄、仙台藩主・伊達周宗の後見人)と工藤様にお聞きしても居たれば、堀田様に源四郎殿の跡目相続を支援して頂くは容易なことに御座ろう。
また、重村様(仙台藩第七代藩主)の御代に藩の台所も仕切っていた工藤様だ。その倅とあれば、家督相続も跡目相続の問題も観心院様(伊達重村の正室)の賛成を得るは難しくはなかろう。
吾がすべきもう一つ。源四郎殿に一季書き出し(現代の履歴書)の方法を教えることか。いずれは御近習衆の藩医に仕上げることか。それなれば吾も安心じゃと工藤様もきっと草葉の陰でお喜び下さるであろう。
後に、年頃にある拷子殿と照子殿の事か。お二人を何処ぞに縁づかせるはまだ早いのか・・・。何処ぞに御奉公に上がらせるにしても吾に伝手とて無い。
観心院様に御相談させて頂こう。それでこそ工藤様も安心しよう。御恩の少しはお返し出来ようか。
墓は深川の心行寺と決まった。先に亡くなった奥方(工藤遊)と仲睦まじかったゆえ一緒の墓に眠るが最も良いと思いもしたが、当世の墓事情もある。人の多い江戸なれば吾の所と同じように同じ墓地の中でも離れ離れとは・・・。
寛政十二年十二月十日(西暦一八〇一年、一月二十四日)、工藤様(工藤平助)病死(享年、六十七歳)。嗣子、工藤源四郎から連絡があったと記す。(官途要録)
(工藤平助が没した翌年の享和元年九月、工藤源四郎は家督を継いだ。また翌享和二年には御近習衆の藩医に取り立てられている。
工藤源四郎に掛る一季書き出しには実名・鞏卿、二十七歳とある(官途要録)
工藤拷子は福井藩、第十三代藩主松平治好の江戸詰め奥女中に上がる。
また、末娘の照子は暫く源四郎の傍に居たが、後に奉公勤めに出て仙台藩、藩医、中目道怡に嫁いだ。
なお、工藤平助の墓は「工藤元琳甫の墓」と刻まれて現在も東京都江東区深川二丁目の心行寺にある。
その右傍には養父、工藤丈庵(「泰黙府君墓」)が眠る。参考図)
[付記]:来週からは、「第二十二章 享和年間」になります。
