第二十一章 情報
一 蝦夷地測量調査の報
八月(陰暦)、稲村三伯のハルマ和解ようにと序文を認めた。後世にも残るであろう初の蘭日辞典だ。
その完成を喜ぶ半面、吾は何をした。(ハルマ)和解の実際は石井庄助、稲村(稲村三伯)、安岡(安岡玄真)、才助(山村才助)等々皆が協力して出来た物。吾は傍に在って陰ながら指導してきたにすぎない。序文の末尾に「檞蔭磐水子」と記すか。
(檞の字はブナ科の落葉高木、柏を意味する。蔭の字は文字通り陰を意味する。大槻玄沢は「檞蔭磐水子」と記すことにより、師匠でもあるが陰で支えたに過ぎないと語る)
純の笑顔も、大分に大きくなった五三の顔も仕草も見ればほっとする今日この頃だ。だが、神無月(陰暦十月)に入って間もなくに純が吐き気を訴えた。何、少し休めばすぐに元に戻りますと言う。顔を見れば青白い。お京に飲み水を頼んだ。
(仙台藩)上屋敷に上ったら、少しばかり急ぎ足で近く寄って来た桑原殿(仙台藩医。二代目・桑原隆朝純明)だ。
彼は先頃に身幹儀が幕府に献上されたと語る。また、伊能忠敬殿一行が蝦夷地の調査を終えてこの江戸に向かっていると言う。
身幹儀が事は予定されても居たことであれば驚きはしない。だが、蝦夷地調査隊が無事に帰ってくると聞けば、門外漢の吾でさえもその成果を早くに聞きたいものだと思う。
一日に凡そ十里(約四十㎞)も歩いて実測していると耳に入って来ているが、それらの事は到底吾に出来ることではない。来る日も来る日も山坂十里も歩けるか。
大雨の日も、太陽がカンカンと焼け付く日照りの日も有ったろう・・・。
測量技術等は高橋殿(高橋至時)や間殿(間重富)の教えに依る所が大きいのは間違いなかろう。吾は、天文、地理、測量等に西洋の教えが活かされていることが嬉しい。
かつて間殿にお聞きした地球を測る緯度とか、地球の縦の線(子午線)とか言う物の理解が吾は未だに出来ていない。だが、一行が戻ってくるとお聞きして、地球上の今に何処に在るか、天文で己の位置さえも知りもするのだと、最初に教えて呉れた長崎の本木殿、志筑殿の顔を思い出しもした。
急ぎの情報提供が終わりもしたか、次の言葉だった。
「其方と顔を合わせるのも久し振りじゃの。お元気に御座ったか?」
「はい、お陰様で。桑原様もお変わりなく御座いましたか」
「うん。お陰での、変わりなく過ごしておる」
桑原様も吾も外宅を許されても居る身にあれば、日番の取り合わせ(勤務表)とはいえ、なかなかに顔を合わせることもない。ましてや桑原殿は蔵米四百俵取り(高四百石)の身にもある、吾には上司になる。
「今に、この江戸に伊能殿が帰ってくるとの連絡が有っての。
無事に到着すればと、堀田様(堀田正敦、幕府若年寄。仙台藩主・伊達周宗の後見人)と話して来たばかりじゃ。
五十(歳)の坂をとうに超えて蝦夷地測量に出立した方で御座るからの」
娘子(桑原信)が伊能殿の後妻に入ったものの、難産が元で亡くなったと間殿に聞いたは五、六年前の事だったか。
「己から(蝦夷地に)行かせてくれと話したとお聞きした時は半信半疑じゃった」
「自分から申し出たと?」
「堀田様から、そのようにお聞きした。
北の守りを固めるにも蝦夷地を良くに知らねばと測量の話に及んで、吾に行かせて呉れと伊能殿が申し出たと。それが此度の調査隊になったとお聞きしておった。
その場に一緒に居った高橋殿(高橋至時)殿の後押しもあったようにお聞きして御座るがの。
千住(千住宿)まで迎えに行くつもりでおる。到着の日が一日、二日遅くなっても千住で待つつもりじゃ。。
此度の測量はそれ程の価値が有る物と思っても居るでの」
語るそのお顔を見ると、己が手柄を手にしたような桑原殿だ。
(寛政十二年十月二十一日、西暦一八〇〇年十二月七日)、伊能忠敬隊一行は関係者が迎えるなか千住宿に到着した。
所要日数一八〇日、蝦夷地滞在一一七日。これが、いわゆる後の世に伊能忠敬、第一次調査と記録されるものである)