四 お役目と(おのれ)

「寒い寒いと思っていたら、とうとう雪が降り出しましたよ。

 暮の喧騒は何処へやら、雪も大分に積もったれば、静なお正月(寛政十二年)に御座います。

 祝いの膳は既に整いまして御座います」

「うん、先にお茶を淹れてくれぬか。まだ寝ぼけ(まなこ)に在るでの」

「はい。身が整いましたらば、直ぐにも熱いお茶をお持ちしましょう」

 己が正月用の晴れ着を着るようになったのは何時の頃からか?、田舎に在った小さい頃も、江戸に来た頃のことも思い出される。吾のも家族のも、そして使用人の着る物にも今は気を遣る(気を配る)ほどになった。否、()れた。今の己の身を神仏に感謝せずばなるまい。

 手伝って貰いながら正月用に(あつら)えた丹前と羽織に腕を通すと、(すみ)の言葉だ。

「その頭(坊主頭)にあらねば、何処(どこ)ぞの立派な旦那(だんな)様、御大尽(おだいじん)様にも見えて御座います」

 口元を抑える顔を見て、(すみ)もやっとに冗談も言えるほどになったかと釣られて笑顔になった。(己の)後厄(あとやく)の年も超えたのだ。この幸せがずーっと続けば良いとも思う。

 家族に使用人、揃った皆の祝辞を聞くと心も新たまる。身も引き締まる。吾も大黒柱と言えるようになったかとの思いもしてくる。

 

 もう、七草の夜か。しばし休もうと文机(つくえ)を離れ、脇息(きょうそく)を引き寄せた。忙しい身はここ数年変わらぬ。いや、年毎に段々に忙しくもなったれば新年の挨拶回りも不義理になりがちだ。それを気にしながらの挨拶回りだったが、今年一番に印象に残ったは光太夫殿(大黒屋光太夫)だ。

 離れて置いてある大火鉢の五徳の上で鉄瓶がツーツー言い出した。光太夫は、根室の土を踏んで(帰国して)九年になると言った。歳を聞けば、五十一歳、磯吉は三十七(歳)と言った。光太夫の髪には白い物が大分に目だった。 

「自分が元気なうちに歩けるうちに、一度は若松村に帰らねばと思いながら未だにそれが果たせていないのです。

 帰ったれば真っ先に一見諫(いちげんかん)()衛門(えもん)殿(遭難した神昌丸の船主)に会ってお詫びしたい。船と積荷を失った経緯(いきさつ)は以前にも手紙で書き送ってはいますものの、面と向かって報告せずばと、ずーっと気になっていることにございます」

 御上の御取調べなどと言うものはもう無い。二人の住まいも落ち着き、帰国して九年も経つに未だに沖船頭としての責任を口にした光太夫殿だ。

(彼の)人柄を示す物に違いないが、それ以上に、心の中では未だに己に課せられた役目を終えて居ないのだった。

「両親は既に亡いものの、嫁いだ姉が今も田舎で生きても御座います。

 姉に元気な姿を見せねばとも思うのです」

 かつての仕事の事も身内の事も聞きながら、あの時、感心も感動も覚えもした。

 己でお茶を淹れるのも久しぶりのことか。鉄瓶のツーツーが一時(いっとき)止まった。

 

 光太夫殿との話を思い出すに、今に大坂に在る間殿は達者でいるだろうか、家業(質屋)の方はどうなったのだろうかと思いもする。

 熱い。手にした湯飲み茶わんの熱さに、思わず指を耳に持って行った。

 寛政の暦となって丸二年が過ぎたことになる。天文の事となると門外漢の吾には良くわからぬが、磨は格段に正確になったとの評判だ。日月蝕をぴたりと当てると改暦に尽力した高橋(たかはし)(よし)(とき)殿、羽間(はざま)重富(しげとみ)殿に掛る評判は良い。

 その功績により羽間(はざま)殿は御上に「(はざま)」の苗字を頂いた。(江戸に)残った高橋殿(高橋至時)は暦法の更なる改良を目指して研究を重ねているとお聞きしている。時に倅殿(高橋景(たかはしかげ)(やす))が天体観測を手伝うようになったともお聞きしている。 

 あの浅草の天文台に、京都に有った天文観測機器(京都の改暦御用所に有った垂揺球儀、子午線儀、象限儀など)が移設されたことも高橋殿の一層の研究心をそそるのだろう。今は天文に(かか)る蘭書の翻訳に測量事業に大きな関心が行っているとか。

 

 良沢先生が宅に顔を出すのも三ケ月ぶりになるか。新年のご挨拶に来た時と二月末にご機嫌伺いに顔を出して以来かと思いながらに門を潜った。

 桜木の新緑が大分に大きくもなったかと思いながらその先の青空を見上げた。陽が燦燦と降り注ぐ。初夏を思わせもする陽気だ。

「朽木侯が家督を養子の(とも)(つな)殿に譲って隠居した。知りおるかの?」

(寛政十二年四月九日、陽暦一八〇〇年五月二日。朽木昌綱、五十一歳にして隠居)

 「はい。今は剃髪して近江(おうみ)入道と号し、箱崎の中屋敷(現、中央区日本橋箱崎町)の方にお住まいを替えたとお聞きして御座い 

ます」

 お応えしながらに、朽木侯もまた長く先生のお弟子さんだったなと思いもする。

「侯の隠居は早い気もするが、考えがあっての事じゃろう。

 吾の方はすっかり身体が弱っての。

 屋敷(中津藩上屋敷)にご機嫌伺いに出ずとも良い身に在るが、未だに侯(中津藩第五代藩主、奥平(おくだいら)(まさ)(たか))の命を受けた者が様子を見に来る。

 この年齢(とし)になっても、(侯が)吾を心配して呉れるは有難いことよ」

「はい、(命に従い)先生が長年お役目を果たしてきた、これまでの貢献が有ったればこそに御座いましょう」、

「過去に書いた物(書籍)でも、修正せねばならぬ物はないか、書き忘れた事はないかと、今は見直しもしておる」

 流石(さすが)に先生だ。そのお言葉に嬉しくも思う。だが・・・。

年齢(とし)を取ったな。物忘れも多くなっての。加筆修正せねばと過去に控え置いた物が何処に行ったか。探し回ることも多くなった。

 目はかすみ、耳は遠くなる。老いるとはこのような事かと身をもって実感しておる。

 出来る限り己の事は己でせねば、始末せねばと思いもしているが、この頃は嫁(お岩)にも息子(養嗣子、(しん)(あん))にも世話を掛けることが多くなっての。

 如何(どう)したものかと考えておる」

 弱気な先生をかつて見たことは無い。

「如何したものかとは・・・」

「・・・・。一人暮らしも・・易くは無くなった」

「えっ」

 その先を聞けなかった、養嗣子とはいえ息子夫婦と同居しているのだ。なのに、一人暮らしも易くは無くなった、の一言が今の先生の家の中における立場を物語っているのか。

(市民から見れば)人も羨むような立派な御屋敷だ、自分が建てもした家屋敷(いえやしき)なのに、居ずらい環境にあることを言っているとしか受け取れない。

 帰る道々、何か手伝えることがあるかと思案した。縁組に関わっていた工藤様は、吾が想像する良からぬ状況を知っているのだろうか。

(前野良沢の養嗣子、前野(しん)(あん)は仙台藩領内、塩釜神社の神主、藤塚(ふじつか)式部(しきぶ)(とも)(あき)の三男である)