三 小石元俊の役目

 四月も始め、(すみ)は女子の子を産んでくれた。五三(いみ)と名付けた。お通さんもお京も驚いた、女の子のお名ですよと聞き返しもした。だが、名付けた意図を知って黙った。

 その名の通りにその年齢(とし)に至るまでは少なくとも生きよと、名に吾の願いを掛けた。

 純は笑みを見せて呉れた。目の前で、お父様の言うとおり、頂いた名の年齢(とし)までは丈夫に生きるのですよと赤子に声を掛けた。

 先生が所で見た伯元殿とお扇殿の命名紙の鶴亀の絵の(ことわり)に及ばずとも、子の長生きを願うは親たる者、皆同じ気持ちであろう。今度こそ丈夫に育てと願う。

 後になって、何故に五十三なのかと、自分でも分からず苦笑した。

 

 八月、(陽暦九月)小石元俊殿が江戸に来られたとの知らせに驚いた。先生からの声掛けだ。先ずは駆けつけねばなるまい。

京にて木骨を見た小石殿がその感激、感服の余り(したた)めた五言絶句を、「(しん)(かん)正的(せいてき)」に書き写したばかりだ。絶句を先生からお見せいただいたことも、また、引用したお礼も言わねばなるまい。

(「(しん)(かん)正的(せいてき)」は、大槻玄沢、星野良悦の共著として後に発刊された)

 燦燦(さんさん)と照る夏の陽に、見える大川の川面とてキラキラ光っている。

 吹き出る額の汗を拭ってから、門を潜った。

「この春四月(陽暦五月)に、小石殿は丹後田辺侯のお召しで往診に出かけたらしい。

 それ以来のお役目に在るとお聞きしたが、当の(藩主、)牧野佐渡守宣成殿がこの江戸に下る事になっての、お供して来たと言っておる。

 御年(おんとし)五十七(歳)の身になると長旅はきついと申しておった。

なかなかに疲れが取れず、江戸に来てからというもの三、四日ばかりも横にもなっていたと話していたな」

 会えるものと思って急いで駆けつけもした。だが、先生のお話は二日も前の事だった。此度のお供は侯の体調が優れぬ中での江戸上り。侯の症状を秘匿しての江戸上り故お側を離れて表を歩けぬと申していた、とお聞きして納得せざるを得ない。

だが、十六(歳)になる子息(小石(こいし)(げん)(ずい))を連れて来たと聞いて、その子息に会ってもみたかったと思う。

 (後に(寛政11年9月)、小石玄瑞は、大槻玄沢の運営する塾、芝蘭堂に入門する)

 

 この頃、(かん)心院(しんいん)様(第七代仙台藩主・伊達重村の正室)の体調が芳しくない。幼い御屋形様(伊達政千代。この時、三歳。後の第九代仙台藩主・伊達宗(だてむね)(ちか))のために、忠臣に在る御奉行や伊達一門による補佐体制を敷いたと聞いて三年になるが、常に御屋形様のお側にあるは観心院様だ。

 母親代わりを務め、時に藩政にも関われば何かと気苦労も多かろう。また、この江戸の暑さに吾等とて体調を崩しやすい。観心院様のために養生と気付けの薬を処方した。

(官途要録に寛政十一年当時の観心院を心配し、診療する事が度々記録されている。

なお、仙台藩の役職は伊達忠宗(仙台藩第二代藩主)の代にほぼ構築され、お奉行衆は原則六人。うち江戸詰め二名、国許詰め二名、残る二名は在所に有って交代休息となっている(仙台市史)。

 この当時の江戸詰め御奉行の一人は中村景(なかむらかげ)(さだ)で、第六代伊達藩主、伊達(だて)宗村(むねむら)の七女、済子(せいこ)を正室としている。済子は第七代伊達藩主、伊達重村の同腹()であり、佐野藩主、堀田(ほった)正敦(まさあつ)(以前は堅田藩主、今は江戸幕府の若年寄、第六代伊達藩主・伊達宗村(むねむら)の八男)の同腹()である。

 また、もう一人の江戸詰め御奉行は大内縫(おおうちぬい)義門(よしかど)登米郡(とめぐん)西郡邑(にしごおりゆう)(しゅ)である。

 補佐体制は当時の涌谷(わくや)伊達家第九代当主・伊達村(だてむら)(つね)亘理(わたり)伊達家第十代当主・伊達(だて)(むら)(うじ)、登米伊達家第十代当主・伊達村(だてむら)(ゆき)で構成され、年番の三交代制となっていた。

 特に重要な案件がある場合は伊予(いよ)宇和島(うわじま)の藩主、伊達村(だてむら)寿(なが)など親類衆に相談することとされていた。その上で伊達政千代の後見人となったのは堀田正敦である)

 

 色づいた葉のハラハラと散るを観れば、喧騒なこの(江戸の)街並みにも秋の気配は知れる。時の経つのも早い。そんなことを思いながら先生が所の門を潜った。

「小石殿が先日に江戸を経ったでの。凡そ二ケ月の短い滞在じゃった。

(田辺)侯が灸を嫌い診療を拒むうえに、その取り巻きもまた間に立って、殿が嫌う物をせずとも良いと言い放って、何のために江戸までお供して来たのか分からぬ、お役目を果たせぬとこぼしておった。

また、本人自身も痛風が出たりして体調が余り良くないとの事での、其方との逢う日も約束出来なかった。

 されど、吾が頼んだ藩公の世子(杉田玄白の藩主酒井侯の公子)の診療に当たってくれた、また、床にある石川(石川玄常)の所に往診もしてくれたよ。小石殿には感謝しておる。 

 其方に会えぬが心残りと申していたでの、そのことだけでも伝えようと呼びもした」

「有難う御座います。

 残念な事では御座いますが、またの(会う)機会も御座いましょう」

 周りはもううす暗い。秋の夕はつるべ落とし、とは良く言いもしたものだ。またも小石殿とお会い出来なかった。