「出来たれば吾の所にも備え置きたい物ぞ。(天真)楼に学ぶ者の目にさせずばの・・」
「お言葉、有難う御座います。先生の所蔵する書の一つに加えて頂くは名誉な事に御座います。
また、今は亡き有馬(有馬元晁、文仲))が、吾が夜の時々に語った阿蘭陀の事どもを己の控えとして書き残しておりました。
知って驚きもしましたけれど、越村(越村深蔵。号を図南、幽蘭斎)に見せたれば、面白い、田舎にいる皆々にも今に吾が学んでいる蘭学を知ってもらう、和蘭という国、異国を知ってもらうにこれほど良いものは無いと語り、出版しましよう、吾が国許で是非に発刊させて下されと言い出しました。
(発刊に)掛る費用は己が都合すると申されては断れもしません。
むしろ彼の国許、伊勢国洞津(現、三重県津市)で発刊されたとあれば、江戸にも、京、大坂に在る者にも蘭学は今や地方にも浸透しておると理解されましょう。蘭学の一層の発展には好都合に御座います。
越村自らが今にその校正に当たっております。また、洞津南東町の山形屋東助殿の所が発刊、製本に当たるとお聞きしております。
大衆、市民に向けた西洋の文物の紹介、啓もうを主たる内容としておりますけれども、完成したればそれもまたあの蔵書蔵に収納して頂ければ幸いに存じます」
「うん。(天真)楼に学ぶ者の阿蘭陀、いや、西洋の理解に大いに役立つであろう。
聞いておるだけで、吾も楽しみに思う」
「書を手にした誰もが理解し易いようにと、有馬の問いに吾が答えると言う形にして御座います。
一口に紅毛、オランダと言いますけども、先ずは国の名の表し方に「いろは」文字をもってするオランダも有れば、「阿」に「蘭」の字、「阿弥陀仏」の「陀」の三文字をもって「阿蘭陀」もあれば、「和」の「蘭」と書いてもオランダというと。国の名の表し方から始まり上下二巻に四十六の事どもを記して御座います。
オランダ人に踵(かかと)が無いと聞くが本当かと、馬鹿げた質問にも答えております」
「有馬がそのような質問をしたと?」
「いえ、そうでは御座いません。世間、市民の誤った理解を正さんがために、有馬の書き残してある物からそのような質問も拵えて御座います。
理解を正すために、質問の後に答えと共に西洋人の人体絵図を入れることにしました。男も女も裸体です。それを見れば誰が何と言おうと阿蘭陀人にも踵があると分かることに御座います。
「ハハハ、面白い事よの」
「はい。また、阿蘭陀人が葡萄酒やビールとか言う酒を飲むときに使うコブ(コップ)や、その外の諸々の硝子製品、食事の時に使うという食盤三具、「ほるこ」(蘭語でボルク、ホーク)、「めす」(蘭語でメス、ナイフ)、「れぃぽる」(蘭語でレポオル、スプーン)などを紹介しております。
ミイラの話に、駝鳥、駝鳥に似た食火鶏、薬にもなる植物等も挿絵付きで紹介し、説明もしております。シャボン(石鹸)、カステイラ、カルタ、カンテラ(燭台)など市民の身近になりつつある物にも触れて御座います。
それらを整理しながら有馬と語り合って過ごした夜が思い出されて、ふと、懐かしくも、感傷的にもなります。
(和蘭)流行に乗って世間に披露することにもなりましたが、(発刊が)彼の生きているうちなら良かったのにと思いもします」
「そうよのう。有馬も己の書き貯め置いた物が役立ったと草葉の陰から喜んでもいよう」
「書の名を「蘭説辨惑」にと思っても御座いますが、有馬とは夜の夜中に話すことも多かったれば「磐水夜話」にしようか思っても御座います。
版元は磐水の名を出した方が良い、その方が売れると商売を先に話しても御座います」
「これだけ蘭学の世ともなれば、阿蘭陀の教える事どもを紹介するだけでなく、人々の誤った理解を正すのも翻訳家の其方の役目かもしれぬの?。
朽木侯(朽木昌綱)の発刊した「古今泉貨鑑」を見たか?。
銅銭、銀銭、金銭、良くぞこれだけ和漢の銭貨を集めもしたものだと驚きもした。
だが、注目すべきはあの書き表し方よ。カタカナに漢字交じりとして手にする人、読む人の理解が進むようにと明らかに工夫しておる。古今泉貨鑑が二十巻にも成る大作にも関わらず、大いに評判になりもすることよ。
其方のそれが蘭書の教えるを江戸市民等に伝える、誤った理解を正すとあれば、読む人が読んで理解し易いように仮名文字を多くにして漢字を少なくするも良いかと思う・・・」
「はい。ごもっともに御座います。それ故、いろはをもって書き連ね、漢字を少なくして御座います」
道々、かつて司馬先輩(司馬江漢)が、市民の見方、市民に蘭学を知ってもらおう、普及させると言いながら何故に蔫録は漢字ばかりなのだ、何故に蘭学階梯は漢文なのだと吾を批判した時のことを思い出した。
蘭説辨惑は読みやすく、分り易くを第一に置こう。先生のご忠告はもっともなことだ。戻ったら、稲村の「ハルマ和解」の序文もどの様にするか、再度、考えても見よう。
(日本に初めてビールを紹介したのは大槻玄沢と伝わっている)