第二十章 お役目
一 星野良悦の宿題
手にした瓦版だ。暮に大田南畝や唐衣橘州等と共に狂歌を大いに流行らせもした朱楽菅江が床に臥せていると聞きもしていたが、アッケラカンに亡くなったとある。
南畝の変身した今をも重ね思うと、一時代が終わったような気もしてくる。
(朱楽菅江の死は寛政十年十二月十二日。西暦一七九九年一月十七日)
施行されて一年(寛政十一年)。寛政暦の良し悪しはまだ分からぬが、厄年も無事に乗り越えたかと吾は後厄のこの先を思う。
今年も、吾も家族も使用人も無病息災、良き事が有りますように、田畑の実りが豊穣でありますようにと願を掛けた。吾家の小さな神棚に在る神様とて吾の願の多さに苦笑いしているやも・・・・・。
先に手を合わせた仏壇から御線香の匂いが流れてきた。
「(吾の)部屋に居るでの。お茶を淹れて、持って来てくれぬか」
「はい」
身重の純は笑顔を見せた。その側でお京が頷きもする。
文机を前に座りはしたものの、さて、何から始めようかと思う。
完成とした重訂解体新書と雖も星野殿の木骨を参考に、殊に鼻孔、眼窩、耳廔孔など頭蓋骨に見る孔に着目して改めて西洋の医学書の教えを見直し、翻訳の良し悪しを再点検せずばなるまい。
それにしても、伝聞と言う物は恐ろしくもある。とうとう日を改めて江戸市民を対象に身幹儀の展覧会を開くことにもなった。
吾が芝蘭堂でのたった一日の展覧会に三百人を超える人、人が押し寄せた。医学、蘭学に関係のない者とて多く居たろうが、何にでも首を突っ込んで来る者の多く居る江戸だ。
良沢先生にお声を掛けて良かった。小島春庵殿と奥方(前野良沢の次女、峰子)、頣庵殿(前野良沢の養嗣子)に支えられてであったが、先生もまた身幹儀を目にした。
だが、それだけで収まるものでは無かった。噂は広がる一方で、浜町の先生が所(天真楼)に場所を移して展覧会を開くことにもなった。
医者に限らず御大名、御大尽に江戸市民、漢方の名門と称される医家たちが木骨見学に訪れ、押すな押すなの大騒ぎは杉田玄白という御高名な先生の名ばかりの事では無かった。
「お茶をお持ちしました」
「入るが良い」
微笑みながら、お盆を手にした純だ。来たのはお京ではなかった。少しばかり慌てて、部屋の隅に置いたままの座布団を手にした。
「良いところに来た。
何から手を付けようかと思案して、定まりかねて居た所よ」
文机の上に白紙を広げたままだ。
「こういう日もある。
暫く、話し相手になるが良い」
「それは嬉しゅう御座います。私にお話相手が務まりますかどうか。
この所、何時もお部屋にこもりっきりですもの。
お勤めの上に翻訳に塾の事、時に頼まれれば往診にもお出かけになる。
お側に見ているだけでも貴方様のお身体が心配にもなります」
「うん。己で己の身体を良くに考えて行動しているつもりじゃがの。
それよりも、吾の所に来て丸一年も経つに其方の良くする和歌を共に語る、其方の書を観る、愛でる余裕とて無く申し訳ないと思いもしている」
「そのような・・・。そのお言葉を頂けるだけでも嬉しゅう御座います。
お仕事の方は、今はどの辺りに・・・・」
「うん、暮のこと、今に星野良悦殿の事を考えても居る。
あの身幹儀、驚きもしたであろう?」
「はい。ただただ驚きで御座いました。
人の身体とはこのように出来ているのかと、今も驚きながらに覚えて御座います。
星野様等は、今はどの様に・・・」
「間もなくに江戸を離れる。
先生(杉田玄白)が、京、大坂にても医者はもとより、世間一般の人々にも是非に身幹儀を御披露されたいと申しての、
京に在る小石元俊殿に宛てた状(手紙)を持参させることになった。
小石殿は漢方も蘭方も良くする医者の大家ぞ。大家なれど患者を選ばぬ。
己の勉強になると思えば何処にでも出かける御仁じゃ。
先生も吾もその小石殿と好を通じておる。
昔の事じゃが、吾家が日本橋も本材木町に在った時、田舎から母上等を呼び寄せもした前じゃ。小石殿は凡そ半年、新築なった吾の所に滞在した。
その折に、伯元共々医学医術に加えて医者たる者の姿勢や有り様をも教え頂いた。吾は勿論のこと、尊敬しておる。
星野殿等は、故郷、安芸(広島)にはその後に帰ることになるのー。
星野殿は宿題も抱えることになった。法眼様(桂川甫周)があの医学館、神田佐久間町にある幕府直轄の医学館に身幹儀を是非に納めて下されと申しての。
また、先生も是非に木骨を(天真)楼に置きたい、医学医術の振興に役立てたいと申しての。
星野殿は、実際に造る作業を行う指物師(原田孝次)と相談する、期待に応えられるようにする、と言っておった。
法眼様の求めに応じて医学館の教壇にも立った星野殿だ。次の身幹儀が如何あれ、まさに相撲番付に見立てれば、蘭学者の中で大関に叶う者よ」
「貴方様こそ今や世に知られた蘭学者。翻訳家に御座います。
それゆえあの出来上がった番付表の勧進元に貴方様の御名を見たとき、正直に申せば、驕りがそれをさせたかと、後々に貴方様の悪い評判の元になりはしないかと心配にもなりました。
余計な心配でございました」
「其方の心配は、木骨の評判と威力で消えたと言ってもいいのかもな。
吾が番付を作ると話して、伯元殿が最初は同じようなことを言って心配もしてくれた。
其方の心配は間違っておらぬ」
「今は、ほっとしても御座います」
最早、言葉は要らぬ。純をそっと抱き寄せた。
[付記]:今日から再度、投稿させていただきます。ヨガポールの効果は抜群です。腰痛が殆ど消え、腰が軽くなりました。
6月18日をもって、投稿を中断させていただきましたが、その後も何かとお読み下さる皆様が居てお陰様で6月もアクセス数(読者)が530を超えました。ご愛読下さりこの場をお借りして感謝を申し上げます。
休みを頂いている間も文献調査をしておりましたが、ただただ驚くばかりです。今、文化2年の暮、仙台領石巻の米廻船問屋の船、遭難した若宮丸の漂流民にかかる聞き取り調査を始めた大槻玄沢を執筆しておりますが、日本の古本屋や図書館を通じて関係資料を漁っていてびっくり仰天です。
調査を纏めた「環海異聞」は当時に発刊されていると知りましたが、何と、そこに挿入されている「地図、絵図はあの津山藩主、松平斉民が「藝海余波」に収録している地図、絵図等と全く同じなのです。如何に、世に周知されるほどのベストセラーだったかが分かります。同時に、桂川甫周によって纏められた大黒屋光太夫等にかかる、「漂民御覧之記」「北槎新聞略」が幕府によって秘中の秘、昭和になって世に明らかになったのと全く対照的だと知りました。
ロシヤ大帝夫婦の肖像画も、レザノフの肖像画もロシヤの兵隊の姿も、島人やロシヤ人の着ている衣服等も、また、氷山の図も港の図も船の図も全く同じなのです。
また、一方、その先の文献を漁っていて唖然としています。御家断絶を避けるために若年の伊達藩主の死を幕府に3年余秘していた。仙台市史にも書かれていないその事実を、当時の仙台藩の奉行・中村日向と幕府の若年寄り堀田正敦(二人は共に藩主にかかわる縁戚関係にあり)が共同して伏せたと想像出来ますが、それを実行するに医者の手が必ず必要とされるのではないでしょうか。その医者は誰か。何万人もの藩士とその家族を路頭に迷わすことは出来ない、三人共、万が一を考えて記録を残さない、残せない。まさにミステリーです。文献調査をしながら、どの様に書き込んでいくべきかワクワクしています。
この夏、老妻をほったらかしにして田舎に帰るのは、その文献調査のために何が何でも宮城県図書館を訪ねるたいと思って居るからです。もう一つ、重要なミステリーが有ります。それは一関市に関わることで訪問先は内緒。図書館には記録が無いでしょう。