九 星野良悦等の格付けー大相撲見立て番付
通り過ぎるは師走の風だ。表に出れば寒さが身を包む。
「吾が屋敷まで、後四半時(約三十分)も無い。辛抱して下され。
着いたら熱燗を容易させましょう」
土岐殿、冨川殿に声を掛けた。お借りして来た提灯が時折吹く北風に大きく揺れるが、木箱を担ぐ二人の足元が良くに分かるようにと照らした。
提灯を持つ手が寒さでかじかんでくる。その備えをしてくれば良かったなと思いもするが、帰りがこんなに遅くなると思いもしていなかった。
中井殿が、提灯を持つ右手に息を吹きかけた。
「星野殿、遅くもなったれば、今宵は四人共に吾の所にお泊まりなされ。
木骨は明日の朝に広げれば良い。
寒くは御座らんか?、江戸のこの寒さが身に沁みもしましょう。
お腹が大分に空きもしたでしょう」
「はい。広島には無い寒さで御座いますな。
吾は兎も角、若い三人は腹の虫が鳴いて御座ろう。
お言葉に甘えて泊まらせても頂きましょう。
大槻様のお陰で予想だにしていなかったことを体験させて頂き、有難う御座いました。大変嬉しくも御座います。
土岐も冨川も中井も同じ思いに有ると思います。広島にても耳にしていた江戸の天真楼。その天真楼社中の皆様に木骨を手にしてご覧頂き、口々にお褒めの言葉を頂いたのですから、言い表しようが無いほどに嬉しく思っております。
大槻様にも杉田先生にも感謝、感謝の言葉の外に御座いません。
身幹儀を学術上からご利用頂いたはこれが初めての事に御座います。嬉しい限りに御座います。
この道々では御座いますけれども、お礼申し上げます。
本当に有難う御座いました」
見れば担ぐお二人も笑みを見せ、星野殿の言葉を裏付ける。
「また、吾等が事の後のお話にも、正直、驚きをもって拝聴させて頂きました。
昌平黌にかかるお話から天文方のお話、今の世の動静にも関わることを耳にさせて頂いて、流石に江戸だなと思いました。
京にある小石元俊殿と大坂に在る木村兼葭堂の所に寄るが良い、京にても大阪にても身幹儀を披露されるが良い、お二方宛てに紹介状を認めようとの申し出には只々恐縮するばかりで御座いました」
(杉田玄白から小石元俊宛ての状が、今に残されている)
「それほどに、身幹儀は世に役立つ物、蘭方にも漢方にも、双方の医学の一層の進展に寄与する物と先生にも、あの場に居た者達にも知れたのじゃ。
先生がもう一体作って吾の所に届けて呉れぬか、報酬は星野殿の望むままにと申されたはそれを語ってもいよう。
小石殿は古医方の大家だが、解体新書を手にされて西洋医学を学びたいと江戸にも来られた方じゃ、先生の所にも吾の所にも暫く滞在して居ったれば、心配は要らん。
また兼葭堂は、吾が長崎に行くにもその帰りにもお世話になった御仁じゃ。寛政の改革とやらのお咎めで造り酒屋の免状は御上に取り上げられもしたが、商才に長けた御方で、今も大坂で色んな商売に繁盛しておる。
上方を訪れた方で、木村多吉郎殿のお世話を得ない文人墨客は居るまいと言われるほど面倒みの良いお方じゃ。心配は要らん」
「あの・・、今、木村多吉郎殿と言いましたか?、兼葭堂は木村多吉郎殿で?
(相撲)見立て番付の西方、前頭も末席に近い方に確か木村多吉郎の名が御座いましたが?・・・」
「その(木村)多吉郎殿よ」
「それは・・・、吾が張り出し大関で・・・・、恐れ多いことで・・」
(参考図―早稲田大学図書館所蔵、松平斉民「藝海餘波」、蘭学者の大相撲番付見立て。
右側四段目の前頭に香月、土岐、冨川,中井の名が見え、左側五段目の前頭に木村多吉郎とある)
