八 身幹儀と杉田玄白

 いよいよ明日に蘭学会の宴だ。お出しする料理の支度は粗方(あらかた)整いましたと(すみ)とお通さんの報告を受けた。

吾は末吉と陽之助に手伝って貰って床の間に何時もの蘭学会絵図を張り出した。絵図の中に蘭学会盟引を(したた)めても有ればこれを欠くことは出来ない。

 また、市川(市川岳山)の描いたこの絵図を見て、これが吾ぞと例年(いつのとし)も自慢気に指をさす御仁とて居る。絵図は評判が良いのだ、

「星野様達がお見えです」

 お京の告げるに、急いで玄関口に回った。

「お待ちしておりました。木骨をどの様に収めたら良いのか分からないでの。

 貴殿等の来るのをお待ちして御座った。

 星野殿が先日に来られた後にも、吾の呼びかけに応じて観に来られた(吾の)諸先輩等が居っての、皆々、いずれも驚いて帰られる。

 ささ、お上がり下され」

 今日は、星野殿に土岐、冨川、中井殿が同道して来た。

 

 四人が、座敷に広げたままの身幹儀を手際良く大箱に収納していく。

以前にもお殿様の前で、また展覧会等で披露していたとあって片付けるにも手慣れたものだ。

「先生とのお約束の時間にはまだ時間がある。

 この間に軽く腹ごしらえと考えての、蕎麦を茹でさせもしましょう。

 それを食べてからに浜町に伺いましょう。

 この座敷が明日の蘭学会の宴の場にもなります。

 先生の所で御披露し、それからまた収めてこの家に戻り、明日のために別な部屋に身幹儀を広げて貰いたいと勝手に考えもしているが如何かな。お時間は許されるかの?」

 四人は顔を見合わせた。

「吾と土岐、冨川は今に寝起きを共にして御座いますれば如何様にも出来ます。ただ、中井は・・・。」

「はい。吾も今日はその(あと)も行動を御一緒にさせて頂きます。

 しかし、杉田先生の所で身幹儀を広げ、検分の後にまた収納するとてそれだけで結構な時間(とき)を要します。それに、ご質問等のあるお時間が如何(いか)ほどか。

 身幹儀を今日のうちに大槻様のこのお屋敷に戻しても、帰って来た時刻(じこく)によっては改めて広げるは明日の朝になるかもしれません。

 宴の開始時刻は?」

 思っても居なかった質問だ。

「(宴の)開始時刻は昼四つ(午前十時)としているが、早い御仁は五つ半(午前九時)を過ぎたばかりに姿を見せもする。

 なんせ、年寄りが多くての。目が覚めるとて朝が早い御仁ばかりじゃ」

 応えながらに、自ら可笑(おか)しさを(こら)えた。

 「帰りがどのような時刻になっても、今日の所は身幹儀をこの屋(屋敷)に戻すことだけにしましょう。

 広げるは明日の朝にしましょう。吾も年寄りの身で、朝が早いは苦になりません。

 大槻様さえ良ければ、明日の朝五つ(午前八時)にはここに来て、大槻様の指示に従い広げる作業をさせて頂きたいと存じますが、・・・如何でしょう」

 了解した。

 戻りが如何なる時間になろうと、今度に広げる別な座敷にお預かりしておこう。中井殿の機転の速い意見に感心した。

 

 先生が屋敷の門を叩いたは昼八つ(午後二時)を過ぎたばかりだ。この時期、日が暮れることとて早い。明るいうちに家に戻れればと思いながらに門を潜った。

 四人は初めて見るお屋敷の大きさに驚きの表情だ。吾も田舎から出て来て最初に先生がお屋敷を見たときに驚いたけど、その時よりも屋敷ほ大きさははるかに大きくもなっている。

 ましてや先の大火事騒ぎで新築した屋敷でもあれば、今も木の香りがする。

何人かの植木職人が、まだ庭で植栽等の作業に取り組んでいた。

「良い木の香りがするね」

 星野殿のお言葉に、木箱の片棒を担いだ土岐殿が頷きながら相槌を打った。

「いつも癒されます」

 見る屋敷の事を評してか、身幹儀の事かと、吾が気を回した。

 新しく入った書生だろう。紫の風呂敷包みを担いだ姿にも、付き添う星野殿や吾の姿にも戸惑いを見せた。

「先生は、今日のこのことを知っている。

 このまま案内してくれるか?」

 吾の名も顔も知る書生はそれで安心した顔になったようにも見えた。

案内のままに先生が座敷を伺った。

 入るが良いのお言葉を頂いて襖を開けると、驚きもした。正面に二十人も居ようか。多くの顔が一斉に吾を見た。何人かの顔に見覚えがある。

 見れば足元から先に大きな緋色の毛氈が敷かれてある。

 先生と士業(伯元)殿は右手の床の間を背に並んで座って居た。

席を立ちもした士業殿の発声だった。

「星野殿等もお入り下され」

 促す言葉に従った星野殿も土岐も冨川も中井殿も、大きく開かれた襖の傍に立ったまま、驚きの表情だ。

「ここに居るは今に天真楼で医術を執る者、先生が寄宿舎に留まっている者等に御座います。

 是非に身幹儀を拝見させて頂きたいと申し出た者に御座います。

 宜しくご理解を願います。

 荷を下ろしなされ。」

 星野殿は驚いた表情のままに吾を見た。察しがつきもしたのだろう。黙って頷き、木箱を肩にしたままの土岐殿と冨川殿に毛氈の一端に木箱を置くよう指示した。

 それからに、吾が、杉田玄白先生に子息の伯元先生だと告げ、吾と星野殿等四人は入って来もした襖を背にして横一列に正座した。