エ 木骨を造る
カピタンに随行して来た医者から西洋では全身骨格の模型を側に置き、医学の研究に役立てている、診療にも当たっていると耳にしてもいる。しかし、それがどのようにして造られた物か余り深く考えもしていなかった。
木でもって人骨全体の模造品を作る、その着想に感心した。
解剖が叶わない医家達が木造の人骨を傍に置いて骨の形態、連繋の仕組みをより知る、検分する、治療に役立てる。それを想像して星野殿達のしたことはとてつもない偉業に思えてきた。
「吾らが欲しかったのは骨で御座います。手本になる実物でした。
作った骨の一つ一つは楠等で出来ております。
年輪が頭蓋骨等の模様にもなりますが、それは不要の事。顔料と胡粉を混ぜた塗料を塗って白くしました。
乾いて象牙色にもなった木製の骨は本物に見えます。一つ一つの重さとて量り、本物と出来る限りに同じにしたのです」
木骨であったら死臭も血の匂いも無い。また所有したとて世の人々に蔑まれることもない。御上とて咎め立てることは出来ない。
「是非にその木骨を拝見したい。見せて下され」
星野殿は寛政四年の六月に領内の医者等を対象に木骨の展覧会を開いた。皆様の好評を得たと言い、その結果に、翌年の八月にお殿様(広島藩第七代藩主、浅野重晟)からお褒めの詞と褒賞金を賜ったと語った。
そして、今では木骨は藩の宝とされ、領地を離れて世に出すにも藩主のお許しが要るのだと語る。
だが、その後に続いた言葉に一層のこと是非に見たいと思った。
「ここに居ります中井(亀助)が長崎から帰って来た時ですから、二、三年も前のことになります。
木骨は世を照らしもする物、西洋医学の一層の進展に大いに役立つ物。されど先生(星野良悦)ご自身がそのことに今一つお気づきになっておられない。
解体新書の教えもさることながら、杉田玄白先生のお弟子の大槻玄沢様がヘースステルの外科書を翻訳している。
その翻訳した「瘍医新書」には「骨は医の要」とあり、医者たる者、特に外科医とあれば骨格の仕組み、骨の役割を良くに知ることが重要と説いておられる。
この木骨を大槻先生に見て貰うべきだ、と進言したのです」
星野殿はもともと吾の所で木骨の話をする、出来た木骨を吾に見て欲しいと前々から願っていたのだと明かした。
オ 木骨は江戸に有る
「吾の江戸上りは此度が初めてのことに御座います。
お殿様(藩主、浅野重晟)にお許しを得て、木骨を江戸に持参して御座います。
勿論、大槻様に見て頂かんがために御座います。
香月様の言う通り、今日にも木骨を持参しようかと思いました。されど、三人の弟子入りが事と、吾の木骨にかかる詮議、評価は別の事。
そう考えて、今日は念願通りに三人の弟子入りをお許し頂きたく参じた次第です。
木骨は香月殿の御配慮もあって、今に(広島藩の)上屋敷の医者溜まりの部屋に保管されて御座います。
お望みとあれば、何時にても持参いたします」
「いや、香月殿との話で今日に見る物と思いもしていた。
吾も藩医の身にもあれば、お殿様のお許しを得るは大変な事と存じ居る」
「はい。今にお殿様がお国に在れば、恵美殿もお国に御座います。
恵美殿を介してお殿様のお許しを得た所に御座います。
香月様は、やっとに大槻先生と面談できる日時が約束出来たと、先に状(手紙)にも認めて寄越しもしましたが、居ても立っても居られない、この時を逃してはならないと態々遠くも有る広島まで吾を迎えに駆けつけました。
香月様と一緒に木骨箱を携えて、半月ほど前に宇品の湊(広島港)を出ました。
瀬戸内から摂津、大坂の港により、紀伊半島を迂回して江戸も品川(港)に到着した所です。
(藩の)上屋敷に木骨をお預かり頂き、吾は今、土岐と冨川が仮住まいに厄介になっております。中二日丸々お休みを頂いて旅の疲れを取り、お約束の今日に参じた所で御座います。
香月様は当然ご一緒に来るつもりで御座いましたが、外に所要が出来て同伴出来ない、同席出来ないと、とても残念がっておりました。
先生(大槻玄沢)に宜しくお伝え下さいと、お言伝も頂いております」
凡そ一月前になる。日時を約束した後、香月が顔を見せなかった理由がそれで知れた。
また、香月も宮仕えの身(この時、五十一歳。広島藩、藩医)ゆえに、江戸に戻って来た身に予定外の用事が出来たは仕方が無かろう。
四人が帰った後にも興奮が冷めない。明日が待ち遠しくも感じるは久々の事だ。
解体新書の改訂に明け暮れて、良くも聞かずにそれどころではないと香月の申し出を凡そ一年も軽んじていたことを反省せずばなるまい。
この事は早速に先生(杉田玄白)のお耳に入れた方が良いのかと思案した。だけど、吾とてまだ実物を見ても居ない。先ずは実物を見ねばと思い返した。
お茶をもう一杯頼まんがために台所を伺った。お京が板の間にへたり込んで未だに青い顔をしていた。
妻に聞けば、何も語らず困っていると語る。そこを離れようとした背中にお京の声だ。
「あの方たちが、先生のお弟子さんになるのですか?、
ここに来んだべが?(来るようになるのですか?)」
振り返りもしたが。何も応えなかった。
その晩、床を前にして、純(妻)に話して聞かせた。驚くのは当然だろう。
明日のお茶の用意は、其方か、お通さんがするようにと頼んだ。
[付記]:昨日日曜日、町内会のウオーキング大会に参加してきました。「大会」などと時代遅れの名をつけるから人が集まらない、競争の時代ではない、昨年同様、「親睦を図るハイキング」と称すれば子供も、若い家族も集まるのに、何故に名称を変更したのだと町内会副会長を勤める老妻の愚痴を聞きながら、小生は例年通りの参加です。
町内に引っ越してきたとき、小生は118番目の家族でした。それが丁度50年たって、町内会の世帯数は1100を超えました。森の中のレストランはとうの昔に無くなり、小手指駅は立体型の橋上駅に変わり、駅から続くメインストリートは当初から電線の地中化進行です。
凡そ8キロのコースでした。参加者は僅か17人、老妻の愚痴も分かります。小手指駅から所沢駅に出て、その東口からのスタートです。繁華街とは反対の駅前を歩きだして直ぐに驚く建造物に出会いました。老妻は既に知っていていても私が観るのは初めてです。それが、トトロの猫バスです。(今日の投稿が長くもなりましたので、明日に続きを書きますね)
参加者の老人隊も皆驚いていました。同時に、こういう参加の機会でもないと町の変化も分からないと述懐していました。
