イ 解剖による生民救済

 解体新書は、頭骨を頭蓋骨と顎骨に分けている。頭蓋骨は更に(ひたいの)(ほね)(前頭骨)、前頂(ぜんちょう)(こつ)(とう)(ちょう)(こつ))、()(ちょう)(こつ)()頭骨(とうこつ))、太陽(たいよう)(こつ)(そく)頭骨(とうこつ))に分けられる。

 星野殿の語るを聞いていて、間違いのない理解だと頷きもした。

「腑分けは(おぞ)ましいものと言われもします。

 未だに解剖を認めない、人の道に外れると忌み嫌い声を大きくする医者とて居ります。

 しかし、解体新書には、死体から人の命を長らえる道が開かれる。治療の妙法(みょうほう)を知る手掛かりになると有りました。

 身体の根幹を見定め、物事の正しい道理を見極め、古い考えを一新して自らの道を歩む者はやがて正しい判断で瀕死の重病人に生気を与える、やせ細った患者をよみがえらせるとの説には感動しました。

 解剖による生民救済の説は吾等の行為も、心も支える物でした」

 その言葉に頷きもした。

「解体新書を拝見してからというもの、是非にも腑分けをしたい。

 (広島)藩が(もと)でも是非に腑分けをすべきだ、解剖をすべきだ、

 人体を良く知って治療に当たるべきだと思いを募らせました。

 江戸に在るお殿様の許可を得るにも恵美殿の御尽力で御座いました。 

 寛政二年九月に腑分けの許可が()りました。

 翌年、寛政三年の四月六日、五つ(午前八時)に瀬戸内を荒らし回る海賊達の処刑が行われました。吾等の念願通りに二体の(けい)()が下賜されたところです。

 腑分けには、江戸から下った恵美(えみ)殿も参加して御座います」

 それは良かったと、声にせず頷いた。お京もまた納得したのか首を縦にしている。

「刑場と海を挟んだ木島と呼ばれる無人の小島で腑分けが行われました。

 木島を選んだは、先に処刑が有ると聞きつけたもした人々、見物人による騒ぎを避けるための御奉行所の御配慮だったと思われます。

 観臓の指揮は恵美三白殿。執刀は刑場の雑役に御座いましたが、骨の採集は吾の裁量に任されました」

「今何と言った?、骨の採集?」

「はい。吾に土岐、冨川の目的は観蔵の後に御座いました。

 木造の人骨を造る。そのために出来る限りの骨を収集するとしていたのです。

 勿論、恵美殿も御奉行所も事前に承知して御座います」

「・・・・・」

 解体新書が世に出た後、あちこちの藩が腑分けを許可したと耳にしている。その観蔵の後に、いずれの藩も手厚く死者を弔っていると聞く。献体者に慰霊を捧げる慣わしは山脇東洋に始まり、罪人と雖も生民救済に貢献したとて戒名もまた許されているのだ。驚きもしながら質問した。

「骨を集めねばと思ったは何故かの?」

「勿論、治療に役立てんがためです。

 吾が十七(歳)の時ですから凡そ二十四、五年も前、町医者で有る父の所に(あご)の骨が外れたと駆け込んできた親子が居りました。

 見れば娘子の右頬が大きくに腫れ上がり、(いびつ)な顔をしていました。口がひん曲がっていましたな。

 父は患者を目の前にして、治せない、接骨を語る接骨医の所に行け、案内しろと吾に指示したのです。

 その行った先で、娘子の顎が元のさやに戻ったのです。

 驚きました。アッという間の出来事でした。()れ下がった大布から娘子共々出て来た接骨医に、即座にその秘術の教えを()いました。

 しかし、接骨医は代々自家秘伝の技と語り、教えて呉れません。

 その時に、骨の仕組み、骨の役割を知らねばとつくづく思いもしたのです。

 父のような医者の投薬や治療だけでは治せない、そもそも人体の骨の仕組み、役割を知らねばとつくづく思うようになった次第です」

 その後に、心身の座(中枢)を成すものについて、漢方は心(心臓)と説き、解体新書が教える西洋医学では脳髄が心身の座を為す、その脳髄を守っているのは骨であると有った。心の臓が血液循環の働きをするが、身体の隅々に如何(どう)あれと指示するは脳で、守りは骨であるとの説に大いに驚いたと語る。

 それを聞いて、吾の質問は愚問であったかと思いもした。