三人目の中井亀助(後の中井(なかい)厚沢(こうたく))は今年二十三歳になる。海に浮かぶ厳島神社のある宮島の出で、木骨(もっこつ)がほぼ完成した頃に(吾の)診療所を訪ねて来たと語る。

 十七(歳)の歳から後藤松眠殿の所で学び、その師である後藤殿の紹介もあって地元の素封家(そほうか)の経済的援助を得ることが出来た、寛政四年の七月から凡そ三年間、長崎も阿蘭陀通詞の西山羊(にしやまよう)(さい)殿が宅に寄宿して蘭方も蘭語も学んできた。今に江戸も()(げん)(ほり)の方の長屋で一人住まいだと紹介する。

 思わず中井殿の方に目が行った。総髪で聞いた年齢(とし)より()けても見えるが、若しかして稲村(三伯)や、山村(才助)から聞きもしていた若者かと想像した。

 安岡(宇田川玄真)が所(長屋)に長崎に遊学したことのある中井という若者が出入りしていると、かつて聞いてもいる。

また、寛政四年から長崎と言えば、中井殿が十七(歳)から十九にも成る時かと咄嗟に数えた。十四(歳)になる陽之助の長崎遊学も真剣に検討せねばなるまい。鉄は熱いうちに打ち、鍛えねばならないのだ。

(中井厚沢は長崎で晩年の吉雄耕牛、蘭医のフェイケルに学び、江戸に在って大槻玄沢の芝蘭堂に学び、その後、郷里広島で蘭学塾を開いた。広島蘭学の祖と語られる)

 お京が、お茶を淹れて来たのが一休みをするキッカケになった。喉元を過ぎる熱いお茶を良くも感じるが、何時もはそれで引き下がるのに何故かお京は出入り口近くに席を取った。

 畳に(じか)に座るは、やがて足腰が痛くもなろう。この季節、下から冷えても来ようと思ったが声もかけず話を続けた。

「藩医に在られる後藤松眠(ごとうしょうみん)殿は漢方医か?」

「はい。基は古医方に御座います。

 されど、後藤様はかつて長崎に遊学したことが御座います。

 吾()が藩の中では恵美三(えみさん)(ぱく)殿と共に西洋医学に詳しい方に御座います。

 かつて、お亡くなりになった平賀源内先生が江戸や大坂で薬品会を開く度に、藩が出品する物の吟味役を担うなど()が藩の本草学と物産拡大に努めて来た方に御座います。

 そして今に、広島の西郊になる三滝の地に広さ九反もの一大薬草園((にっ)(しょう)(えん))を整備している途中に御座います。(日渉園は享保元年(一八〇〇年)頃に開園された)」

「今、恵美三白殿と申されたか?」

「はい。お殿様の御匙医(おさじい)にも御座いますれば、殿のお側に居る事とて多く御座います。

 お殿様も恵美殿も今は国(広島)に御座います。

 恵美殿を御存知で・・・?」

「あ、いや、以前に杉田玄白先生の所でお聞きした名かなと思いもしたでの」

「八年前、寛政二年の秋に吾と土岐、冨川が初めて解体新書を目にしたのも恵美殿の御配慮でした」

 星野殿は、江戸に在った恵美三白殿の御厚意により初めて広島で解体新書を目にした、解体新書の「骨節分類篇図」の骨格図に驚かされた、(けい)(こつ)肋骨(ろっこつ)も載る骸骨(がいこつ)の絵図を初めて目にして大いに驚いたと語る。

 後藤殿の長崎滞在が何時の頃の事かと聞きもするつもりであったが止めた。

 そして、お三方に裁書を確認してもらい、門人長に記帳して貰うことにした。

 墨痕も新しく寛政十年(いぬ)(うま)九月廿(にじゅう)(はち)日(陰暦。陽暦、一七九八年十月二十八日)芸州と土岐殿が記し、後に三人がそれぞれの名を記帳した。

(参考図一は香月文禮、参考図二は土岐柔克等三人の記帳。早稲田大学図書館所蔵、大槻玄沢の門人姓名簿(国の重要文化財)

より)。

 凡そ九カ月ぶりの入門者になるのかと、その前に記帳してある笠間(藩)の(けつ)解省(げせい)(あん)の名も改めて目にした。

 お京が戻って来て、お茶を淹れ替えた。そのまままた襖の戸口前に座り込んだ。何ぞ特に興味の引くことでもあったか?、その目は総髪頭の中井殿に注がれている。

 それからに、話を解体新書に戻した。寛政二年と言えば、解体新書が刊行されて凡そ十七、八年になる。星野殿は、脳と頭蓋骨の図にも、神経の筋、脊椎(せきつい)、樹木のように枝分かれした神経の図にも、頭の皮がめくれて頭蓋骨が覗き見える図にも、また眼球や、耳、鼻、舌の断面や構造、心臓、隔膜、血脈と動脈、門脈、腹部の臓器、陰部の詳細を極めた図にも、土岐や冨川と一緒にただただ驚くだけだったと語る。

 聞きながら、一関の片田舎で吾が初めて解体約図を目にした時の事を思い出した。清庵(二代目、建部清庵由正)先生の掲げる絵図に、そこに居た誰もが驚嘆した、驚きの声を発した。ざわめきが暫く収まらなかった。

 吾の筆写した物を皆が写せばよいと言った亮策さん(三代目、建部清庵由水)だったが、とてもとても解体新書は筆写出来る物では無かった。父上が江戸から持ち帰った解体新書に興奮を覚えながら来る日も来る日もそれを開いた日の事を思い出す。

 星野殿等も想像を超えた驚きだったろう。同じ医者でありながら、この世(日本)にはまだまだ西洋の医学を知らない医者が居るのだと思いもする。

 頭蓋骨という言葉に久しぶりに感心した。頭蓋骨は、解体新書で初めて訳出した語である。以前は頭骨と言っていたのだ。