六 大槻民治の近況報告
「いやー驚きました。一時は、ただただ不安ばかりでした。
林家(家塾)から全く離れて御上(幕府)直轄の物(教育機関)になると聞こえて来たうちは良かったのですが、その学生たるや幕府旗本の子弟に限ると聞いて、吾が身は如何なる、強制的に退学させられるのかと不安に成りましたよ。
(己の)勉強して来た物は何か、素読はどの程度に出来るのかと試されたことも有りましたけど、言われたお役目で、これまで学問所に貢献してきたことをお認め頂けたのでしょうか。外の書生二人と共に昌平黌に残れ、素読指南役等を勤めよとお言葉を頂きました。いやー、実にホッとしました」
年に似ず、薄くもなった己の頭を目の前でなでる民治だ。ご聖堂の有り様が如何になろうと、本人から聞きもしていたこれまでの活躍を思えば民治が黌に留まる扱いとなるは最もな事だと思いもする。
御聖堂に入って一年半後には堂の書記役になり、二年半後には百三十人もの学生の賄御用を勤める司計(会計)役になったではないか。そして先頃(寛政九年)から学寮全体の取締役でもある司監の役目も仰せつかっているのだ。長く在籍しているからと言う物では無かろう、民治の勤勉な姿勢と努力と才能がそうさせたのだ。
「小父上、良かったですね」
事の次第を理解してか如何か分らぬが、陽之助だ。
「おい、小父上ではない。兄上だ。兄上と呼べ」
二人が顔を見合わせて笑う。陽(陽之助)は十二(歳)、民治は二十四(歳)かと思う。
「来たからには、夕食を一緒に食べて行くが良い」
「はい。勿論そのつもりです。吾の叔父上への近況報告は夕食を当てにしております。
ここに来れば美味しい物が食べられる。
懐が寂しい時には叔父上が所と、確と計算の内です」
いつも憎めない答えが返ってくる。吾の部屋に参りましょうと誘う陽之助の後ろ姿とて喜びに溢れている。
あの家康公にお仕えした林羅山から続いた林家が血筋の上で断絶した。幕府儒官、林家七代目林錦峯殿が、子も無く二十七歳の若さで他界したのは五年前(寛政五年)だったか。あの時にも、御聖堂の今後はどうなる、寛政異学の禁はどうなる、朱子学はどうなる、招聘された柴野栗山殿、尾藤二洲殿はどうなる、学寮に居って学ぶ民治は如何なると思いもした。
瓦版よりも先に先生(杉田玄白)からお聞きしたのも五年前だ。白河侯(松平定信)の進言により、家斉公(徳川家斉)が美濃国、岩村藩の藩主、松平乗薀侯の三男、乗衡殿を林家の継子と命じた。
乗衡殿が林家八代目、林大学頭、林述斎を名乗るとお聞きして、跡継ぎ問題よりも白河侯のお役御免(将軍の補佐役解任)は確かに形ばかりの事と思いもした。
ここに来て、学制の改革が本格化してき来たということなのだろう。だけど、学を志すに身分を問うなどもっての外だ。幕府直轄の学問所となったればこそ、なおのこと広く人選し、諸藩に役立つ人材育成の役割を果たさずして何とする。
近頃の政の事情を先生(杉田玄白)にお聞かせ願う必要もあるか。お会いして、勉学を志す者に身分を問うべきに非ずと進言しよう。それで白河侯に伝わりもしよう。
また、今度にお会いする堀田様(堀田正敦)にもその旨進言しよう。二十数年もの間、あの幽閉の身になりもした芦幸四郎(芦東山)殿の考えを思い出しもした。
「禍は口より出ず」の言葉を、吾は長年、芦殿が己の処遇、職責、序列に不満が有って、当時の(仙台藩)藩主に意見を具申した、それゆえに幽閉の憂き目にあったのだと思っていた。だが違った。芦殿は養賢堂に学ぶ者の講堂座の順列を決めるに、長幼を尊重しながらも身分によって決めるべきに非ずと進言していたのだ。・・・その時の世の不運というべきか・・・。